体で感じる釧路湿原 〜旅の風に吹かれて〜

風のツアーや「風の大空」の講座をに欠かせない各方面の専門家の皆さんが、自らのフィールドの魅力を語る新連載の4回目。今回は国内に目を向けて、知床、阿寒、釧路湿原をフィールドとして、タンチョウヅル監視人、ガイド、レンジャーとして活躍している安藤誠さんが、見るだけでなく「体で感じる釧路湿原」を語ります。


■湿原の原野で生きる

 灯しびは  鈴蘭の香に  聴くショパン
この俳句は1928年に鶴居村(当時は舌辛村)のチルワツナイ(キラコタン岬周辺)に入植し湿原の哲人と呼ばれた長谷川光二さんの作品です。彼は関東大震災の後、自らの理想を胸に、東京での世俗的地位 や名誉にとらわれる生活を捨てて原野に飛び込み、1975年にこの地で亡くなるまで、湿原のもっとも自然条件が厳しく、絶滅したと思われたタンチョウが匿われるように暮らしていたチルワツナイで、家族と自給自足の生活を送った人です。

■長靴で湿原を歩く

釧路湿原といえばタンチョウ保護や湿原とその周辺の開発による環境悪化、環境保全の大切さ、とりわけ今日では環境省による河川改修の再蛇行化等の話題がいつも中心となりますが、実際にこの湿原でタンチョウや野の花達と共に暮らし生きてきた人達との関係や歴史を学ぶ事も大切なのではないでしょうか?これは人間が自然の中でどのように生きていくか?という視点にもつながるはずです。釧路湿原が国立公園になって、すでに10年以上が経過しました。一般の関心も高まり、毎年、国内はもとより世界中から観光客が訪れています。しかし、訪れる人の多くは展望地より湿原を眺め、その広がりにのみ感嘆して帰って行く、というのがなんとも残念でなりません。少し時間を取って長靴で湿原に入り、四季を通 じて織り成す様々な種類の霧の幻想やそこに生き生きと暮らす動植物の姿を見れば、我々のこころは踊り出すことでしょう。

環境調査や釣り等の名目以外でこの湿原のぬかるみや湿地そのものを長靴で歩いた人がどれくらいいるでしょうか?湿原を歩くのはルールを守れば誰でも可能です。湿原でタンチョウ達がどんな生活をしているのか、またどんな環境が必要なのかを体感できたらどんなに素敵でしょう?広がりのある景色も素敵ですが、湿原に踏み込み、葦に囲まれ無数に湧き出る透き通った湧水の水辺に立つ時、私は自分がクマやタンチョウになった事を想像し、このうえない心地よさを感じます。

葦が風で揺られて、さらさらと囁く声や静まりかえった鏡のような水面の上を小さな宝石が飛んで行きます。カワセミです。遠くでタンチョウ達がカーッ、コッコ、カーコッコと鳴き交わしているのが聞こえます。このようなクマやタンチョウのやってくる水辺では運がよければタンチョウの羽を拾う事もあります。湿原の神様達のプレゼントでしょうか?

■釧路川で音、光、風を感じる

釧路湿原の魅力のひとつに湿原の大動脈である釧路川を水鳥達の視線で見るカヌーがあります。飲み物やランチを積み込み、梶をあてるだけで漕ぐ事もほとんどせずにのんびりと川にいる時間を楽しみます。川幅もカヌー1艇がぎりぎり通 れるかという細い流れから、海外の川を想像するような開けた大河を下ったりと川そのものの変化にも飽きる事がありません。そのうえ川岸にはタンチョウやキタキツネの親子やエゾシカ達が人間をほとんど警戒する事なく、暮らしの一面 を見せてくれます。土手から兄弟でじゃれ合って転がるキタキツネの子供、カヌーの前を悠々と泳いでいく愛嬌たっぷりのミンクを想像してみて下さい。

しかし釧路川の魅力はそれだけではありません、私がいつも感動するのは川の中で聴く音楽であり、感じる光や風たちです。雑音が静寂を壊すものとするならば静寂をさらに高め感じさせてくれる音は音楽だと私は思っています。それはカヌーを漕ぐパドルから零れ落ちる雫の音であったり、川岸の森から響いてくるアカゲラのドラミングやエゾアカカエルの声、とりわけ格別なのは湿原を渡る風たちを川のまん中で感じられる時です。川の中で風に吹かれ季節ごとの湿原の匂いや温度を感じる心地よさはどう表現してよいものか。湿原に降り注ぐ光達も釧路川の上では素敵な舞台を次々と用意してくれます、そこにあらわれる様々なキャスト達。秋口なら鮭やマス達のジャンプだったり、夏は様々な種類のとんぼ達であったり。

■無限の魅力を秘める釧路湿原

人間の生活は都会でも田舎でも暮らしそのものが自然といってもよいでしょう。そのなかで釧路湿原は開発を拒み、地球が作った自然環境をしっかりと保全、保護した時に人間の生きて行く未来の道も作られ照らされる事を我々に身近に伝えてくれています。また釧路湿原での野性の発見と出会いの感動は理屈抜きに我々のこころを踊らせます。そして季節、目的、視点、場所の選択で湿原は無限の魅力を秘めているでしょう。多くの人がこのかけがえのない湿原の生態系や自然を保護するという立場で湿原を探訪し、そして湿原から受けた感動を目で見るだけではなく心で感じとって、それぞれの地域や日常に繋げていく事を願っています。水の大地、釧路湿原へようこそ!