マラムクーレン村の王の館の前面に彫刻された首狩り族の勇姿像
南アジアの地図を見るとベンガル湾からインドの東部にバングラディシュ(インドから旧東パキスタンとして独立)が食い込んで、その東側にもインド領が広がっています。
7姉妹州(セブン・シスターズ)と称される北東7州がそれです。アルナーチャル・プラデーシュ州、アッサム州、マニプル州、メガラヤ州、ミゾラム州、ナガランド州、トリプラ州。
インパールとその周辺(マニプル州)地図
マニプル州の概略
◆地理
7姉妹州の南東部、ミャンマーと国境を接しているのがマニプル州。その州都であり、唯一空港があるのがインパールです。インパールは第2次大戦当時5つの飛行場があったほど(※1)広い盆地ですが、それ以外は山また山が続く山岳地帯です。その山岳地域にはクキ族と呼ばれるかつての首狩り族の末裔が暮らしています。今はほとんどキリスト教に改宗し、その習慣はなくなりましたのでご心配なく。
※1インパールの飛行場から飛び立った戦闘機や救援物資を載せた飛行機が、インパール作戦当時すでに制空権を失っていた日本軍を苦しめました。
観光シーズンは、乾季にあたる11月~3月。毎年11月21日~30日インパールで『シャンガイ・フェスティバル』というお祭が開催されます。
連合軍墓地(インパール作戦でなくなった連合軍兵士の墓)
◆歴史・文化
マニプルの主要民族はメイテイ族。東南アジアにも多いチベット・ビルマ語族です。その祖先はまだ謎に包まれていて、インド系山岳民族説やタイ民族起源説もありますが、チベット東部のカム地方からミャンマー北部に南下し、その後、マニプルにやってきたという説が有力のようです。マニプルは1世紀から1800年もの長期に渡ってメイテイ族が統治していました。17世紀には中国との戦争にも勝利し、町の中心にカングラ城を建設。最盛期を迎えます。しかし、18世紀後半~19世紀前半にはミャンマー(コンバウン朝)にたびたび占領され、国も弱体化。そして、1891年、王位継承問題にイギリスが介入。英領インド保護下の藩王国となります。それが、1947年のインド独立時には、インドの一部として併合されました。
スポーツも盛んで、近代ポロ発祥の地ととも言われています。また、インドにいくつかある禁酒州の一つです。聞いたところでは、酒による(家庭内などの)暴力をなくすため酒の販売、飲酒が禁じられたそうです。
マハラジャ時代の王宮があったカングラ城
◆日本との関わり
第二次大戦末期の1944年、英領インド帝国の支配からミャンマーを奪取した日本軍は、援蒋ルートを分断することで当該大戦での形勢逆転を狙って『インパール作戦』を実施しました。当時インドの独立を模索していたチャンドラ・ボーズも巻き込みミャンマー西部からチンドィン川を渡り、アラカン山脈のジャングルを越えて東インドの拠点インパール攻略を企てます。国境付近に住む少数民族には、インドからの独立を約束するなど懐柔しながらの進軍。当初は好意的に受け入れられましたが、兵站(物資補給)を無視した作戦は、武器・弾薬・食料に窮し、村々から略奪することもあったといいます。
それでも、戦後、激戦地には地元の村人による慰霊碑が建てられたり、同じモンゴロイドということもあるのか、現地では概して日本に対して好意的な言葉に救われました。
マニプル州 インパールおよび周辺の訪問地
1.マハラジャ時代の最盛時をしのぶカングラ城
インパールの町の中心にある川と人口の堀をめぐらした砦。「カングラ」はメイテイ族の言葉で「乾いた土地」という意味。17世紀に補強され、1891年までマニプール王朝の砦であり、都であり王宮でした。第2次世界大戦のインパール作戦当時は、イギリス軍が、2004年までインド軍が駐屯していましたが、今は市民の聖地であるとともに、憩いの場所となっています。17世紀、中国人捕虜に作らせた城壁の一部や、旧ゴビンダジー寺院(※2)、ちょっと風変わりな寺院などがあります。
※2 1845年に建築されましたが地震とイギリスとの戦いで崩壊。その後、イギリスが寺院から大理石の石板やドームの金箔をオークションにかけて売ってしまい、ご神体は今カングラ城外に新たに建設されて、そこに移っています。
カングラ城の城門
カングラ城内の謎の寺院
カングラ城の城壁
カングラ城内に残る旧ゴビンダジー寺院
2.母の市場 イマ・マーケット
インパールには、周辺からの物資が集まってきます。市場が町の中にあり、いつもにぎわっています。売り手は全員女性。イマ(母)の市場と呼ばれています。食べ物、食材、生地、宗教関係のグッズ、衣類、壷、文具、農具、得体のわからない液体などなどいろいろそろってます。場所が狭いのか建物の外にはみ出して地面に商品を並べて売る人もいるくらいにぎわっています。きっと違法なのでしょう、たまに警備員か警官らしき人が来ると、逃げるように散っていきます。
川や湖からの魚も多い
壷も絵付けして売られています
籠も手作り
野菜は市場からはみ出すほど
3.土着の香り漂うゴビンダジー寺院
元々カングラ城内にあった同名の寺院が地震と戦争で崩壊したため、こちらに再建され、ご神体も遷されました。早朝と午後の2回プージャ(儀式)が行われます。
神殿には、土着の神からヒンドゥ教のビシュヌ神の化身として取り込まれたジャガンナート(黒)、サバドラー(橙)、バララーマ(白)の像が収められ、プージャの時には公開されます。ほら貝と金属製の打ち物の合図で始まり、白装束の司祭が魔よけのような飾りに火をつけ、身を伏せて祈る信者にその煙を散らしてきます。いただいた信者はありがたく、日本の社寺で線香の煙を頭から浴びるように、それを体に刷り込むように頭から浴びます。
ドレスコードがあり、革製品はご法度。裸足での入場になります。ヴィシュヌ派の寺院で、ほかのヒンドゥ教寺院でもあまり見られないプージャだそうです。近くに藩王(マハラジャ)の末裔の館もあります。
黄金の2つのドームがかわいい
中庭では靴を脱いで参拝
表情がユーモラスなジャガンナート神
信者たちは香をありがたくいただく
4.謎の環状浮島のあるロクタク湖
インパールの南45㎞にある淡水湖。プンディと呼ばれる大小の環状浮島がいくつもあり、大きなものには人が住んでいます。環状の中に魚を養殖したり、浮島で栽培したりして生計を立てているそうです。またこの地域は自然保護区に指定され、シャンガイと呼ばれる絶滅危惧種の固有種の鹿がいます。
空から見ると細胞のように見えた
この巨大な浮島が自然に形成されるとは不思議だ
5.インド独立の礎を築いたINA博物館
インド国民軍(INA)は日本軍の東南アジア侵攻と並行してインド独立を目指して組織された軍。インパール作戦でも日本軍と行動を共にし、ロクタク湖に近いモイランの町で、インドの国内で最初にその旗を掲げたとして、モイランの町に博物館が設営されています。インド独立の英雄チャンドラ・ボーズ(※3)率いるインド国民軍の写真や武器、勲章などが展示されています。当時女性の軍隊も存在したことが紹介されていました。
※3 日本ではガンジーがダントツの知名度で、彼のことはあまり知られていませんが、インドでは彼がいなければインドの独立は何年も遅れていただろうといわれる英雄です。
博物館外観
INA創設の記念碑のレプリカ
6.インパール作戦の激戦地レッドヒル
インパールまで16㎞という平原の中にある丘。インパールめざして進軍した第33師団がここでイギリス軍と対峙。宣戦布告から3週間で落とすと宣言していた戦いが2ヶ月になり、物資も滞る中、1週間の戦いで800人が命を落としました。日本兵の血で赤く染まったことからレッドヒルと呼ばれています。今、地元の村人が慰霊碑を建て、日本政府もすぐそばに慰霊碑を建立しています。
ひっそりと今も残る激戦の丘
ロトパチン村の戦没勇士の碑
7.首狩り族と巨石文化の名残 マラムクーレン・ウィロンクーレン村
インパールから北に約90㎞行った山岳地帯に巨石が残る村があります。それがマラムクーレン村、ウィロンクーレン村です。
ウィロムクーレン村には約150の巨石が林立して、最大のものは約7mもあるといいます。そしてそれは誰が何のために立てたのか今も謎のままです。巨石の数を数えようとするとそこにいる霊が邪魔をして数が分からなくなるとか、夜になると石はお互いの名前を呼び合いながら話しをするとか、かつてここに住んでいた人々はこの石から石に飛び移る競技をしていたのだとか興味の尽きない伝説も残っていています。
王の館 左は男だけが入ることを許される会議室
首狩りの勇士の証明である館前面の装飾
この巨石の用途はいまだ謎だそうです
同じアジア、私たちに似てるかな
ミャンマーのチン族の村にも、巨石を谷底から山の上にある村まで村の男みんなで引き上げて、「男を上げる」儀式がありますが、ここにも同じような伝統があると聞きました。
マラムクーレン村には王の館があり、その形が独特で面白い。写真のように切妻造なのですが屋根が地面につくほどに長く、切り妻の正面には日本の神社の屋根にある「千木」のようなものが付けられています。そしてその前面には首狩り族の戦士の姿が彫刻されているのです。そしてその数が首狩りの戦士としての力を現しているのだそうです。その王の館の中で行われる会議には男しか参加できないしきたりがあるそうです。
ほかにも、元予言者を祀った石、触れてはいけない石、王のみが知る雨乞いの儀式などミステリアスが満載の地域です。
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