ロンドン同時多発テロの報道に接して

非人間的な行為の正当化が恐ろしい

7月7日、ロンドンで同時多発テロが発生、またもや多くの犠牲者が出た。テロに良いも悪いもないが、無差別テロには無性に腹が立つ。彼らの狙いは、混乱や恐怖を巻き起こすことによって、究極的な彼らの政治目的を達成することである。そのためには手段を選ばない。そこには、個としての人間性が欠落してしまっている。宗教や民族の論理が明らかに個人の意思を押し殺してしまっている。理由の如何を問わずテロは認められないが、人間ならせめて関係のない人を巻き込むのはおかしいと考えて当然だ。
一方、米国もそれを応援する国々も泥沼化したイラクで多くの犠牲者を出している。「戦争には理由がある」と言うが、正しい戦争なんてありはしない。しかし、現実には、国家は戦争に正当性を与え、最前線に赴く兵は自分たちの任務に正当性がなければ戦えない。これまた、個人の意志は、どんどんに置き去りにされていく。9.11以降両者の対立が進行し、世界を次第に二分してきた。「どちらが正しいのか」といった議論からは解決は決して生まれない。

慣れと嫌悪がリアリティを失わせている

しかし、正直、9.11のような衝撃はなかった。慣れてしまったのか?考えてみるとイラクでは、毎日のように自爆テロが起きており、私たちは日々、そうしたニュースを聞かされている。知らず知らずのうちに「ああ、またか」としか感じなくなっているのだ。恐らく多くの方も同じような状況だろう。私の中学生になる息子たちも、ボーッとニュースを見ながら、面白くないのか、他のチャンネルに変えてしまったりする。「おいおい、大変なことなんだぞ」と思うが、私自身もう見たくないとも思う。慣れで鈍感になり、嫌悪で現実から目をそむける。こんな感覚は決して好ましいことではない。犠牲になった方々には家族があり、人生がある。それが突然断たれた。命の重さは不変である。イラクで犠牲となっているアメリカ兵にだって、他人が取って代われない固有の人生がある。そのリアリティーが失われてきている。

憎しみの連鎖を断たねば

7 月12日、ロンドン警視庁は、実行犯と疑われる容疑者の4人を特定、共犯とみられる容疑者の男性1人を逮捕した。3人はパキスタン系だが、4人とも英国籍だったことが大きな衝撃を与えた。テロリストは外からやっきたのではなく、イギリス生まれのイギリス育ちの市民だった。しかもその若さがショックを更に大きくした。果敢な青年の心をラジカルで過激な思想が占領していく。イギリスという国が、彼らを育てたともいえる。本来テロをなくすには、元を改めねばならない。力で押さえ込めるはずがない。そんなことは誰でもわかる。にも拘らず、今は「テロに屈しない」という表現は力で抗うという意味になってしまっている。既に憎しみの連鎖が始まっているのかもしれない。これを最終的に断たないとテロは無くならない。

貧困をなくせばテロが無くなる?

「貧困をなくせばテロが無くなる」本当だろうか。貧困問題は、テロ防止から語られるような問題なのか。国家そのものが貧しいという問題もあるが、多くの場合、富の配分が偏っており、一部の者が独占していることが大きな原因である。貧富の格差が開けば社会の不満は増大する。貧困問題は、人間の尊厳を守る視点から語られるべきだ。「貧困をなくせばテロが無くなる」なんてどこか問題のすり替えのような気がする。理想論だろうが、テロはお互いの非を認め和解することでしか無くならない。でも人間は、行き着くところまで行かないと和解できないという歴史を繰り返してきた。しかし、昔と違って今は、地球規模で問題は拡大してしまう。行き着くところまで行ったら取り返しがつかない。

武士道は個人主義?

話は変わるが、先日NHKの「その時歴史は動いた」で日本のプロ野球を起こした人々の話をやっていた。昭和の初め、日本で最も人気のあったスポーツは野球。早慶戦には長蛇の列ができたという。そこへ大リーグがやって来た。結果は18戦全敗。アマチュアではアメリカには勝てないと思った鈴木惣太郎氏らがプロ化に奔走。あの読売の正力氏がこれを受けた。意気込んで、選抜チームで再び大リーグと対戦したがまたもや15戦全敗。惨憺たる結果だった。その時の大リーグの監督が「何故日本人は、フライが揚がるとあきらめてしまって全力で走らないのか」と指摘した。“全力疾走で一塁に走る”という高校野球でよく見るあの光景は「日本野球の専売特許」ではなく、実は、アメリカから教わったことだったのだ。「FOR THE TEAM」もそうだ。それまでの日本の野球は、武士道が基本で「アウトと分かっているのに全力で走るようなことは潔くない」といって走らなかった。チームのためではなく個人の名誉が大事。武士道とは「個人が如何に自分を律していくか、責任の全ては個にある」という考え方だと思う。明らかに、日中戦争、太平洋戦争当時の軍人とは全く違う。日本人は、流されやすいというが実は違っていた。幕末の日本にやってきた合衆国総領事のハリスは、「アジア人は脅せば言うことを聞く」と思っていた。ハリスはそれを清国との対応で学んだ。ところが、日本人(武士)は、個人が強い。胆力がある。しかも、驚くべき教養人で幕府の役人以外は脅しは効かなかった。そうした武士が明治という国家をつくった。明治という時代は、実に実証的で科学的な考え方が基本にあった。明治が国家として機能したのは、明らかに個人の卓越した力による。現在のような保守主義的官僚はまだ少なく、ゼロから国家を作り上げた。日ロ戦争など、後に203高地などが強調され、精神力が美化されたが、実は論理に裏付けされた戦術があった。日本海軍は、何故、バルチック艦隊に勝てたか。それは精神力でも、神風でもない。実証的な近代海軍を作り上げ人材を育成したからだ。日中戦争、太平洋戦争になると、実証性はどこかに吹き飛んで、精神力だけが強調され、神風が持ちだされた。戦後、日本は、日本人の精神を否定することで復興を果たしてきた。今になって日本人の精神を取り戻そうという動きがある。しかし、それは、日中戦争、太平洋戦争当時の精神ではなく、個人の意志や、生き方、清廉潔白さが基本になっていた時代の精神に学ぼうということであって欲しい。

個の倫理観に立ち返る

話がだいぶ脱線してしまったが、テロにも反テロにも「○○のために」という“大義”がある。「宗教や愛国心」それ自体はなんら悪くないのに、大義が肥大化して個を強制しだすと人殺しすら正当化する怪物になってしまう。日本人は、日中戦争、太平洋戦争の歴史から全体主義に陥り易いと言われるが、歴史的に見ればこの時期がむしろ例外ではなかったか。日本には、能、茶、生け花、剣道、柔道、相撲など個の心技体を重んじる世界がある。これらは全て「道」という形而上学的な境地にまで高められる。その基本は、全て「個」である。反テロの精神は、テロに対するもう一つの大義を立てることではなく、個の倫理観に立ち返ることだと私は思う。

※風・通信No24(2005年秋号)より転載

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