私の生家は、南信州の飯田市で菓子屋を営んでいます。兄で三代目になります。昔の屋号は、「たばこ屋」。伊賀良村(後に飯田市と合併)では数少ない煙草を扱っていた店だったのでこう呼ばれたそうです。後に、とは言っても私が生まれる前ですが、煙草販売の権利を手放してしまい、祖父は、ちょっとお酒が入るとそのことをよく悔やんでいました。「あんな楽な商売はない。ただ並べておけば売れる。餅饅頭は苦労してつくって売り歩かにゃならん」と。
「棚貸し」の辛さ
私の子供のころは、祖父母と両親そして、住込みで修行に来ていた親戚の「ひで兄ちゃ」という典型的な家族労働で、朝早く起きては、餅や饅頭を自家製造し、店に並べて売ったり、他の商店に卸していました。小学校の低学年ごろまでは、親父のオートバイのタンクの所に乗せてもらって配達について行くのが好きでした。随分山奥の店でも配達に行くので、坂道を登りすぎたオートバイがしばしばオーバーヒートして動かなくり、途中で、エンジンが冷えるのを待ったりしていました。今から考えれば随分のんびりした話ですが、どんなに手間隙が掛かっても、自家製造の餅饅頭が売れば儲かったんだと思います。ただ、返品が多いときは、親父の顔も暗くなり口数も少なくなりました。「棚貸し」といって委託販売だと、売れ残れば、それを引き取らなければなりません。そんな商売の仕組みは、当時の私はまったく分かりませんでしたが、「売れずに返された」ということがどんなことを意味するのかはなんとなく理解できました。
「置き菓子」の魔力
よく「団子屋くらい儲かる商売はない」と親父は言っていました。「メリケン粉をこねて砂糖を少し入れて売る。10円の物が100円で売れるんだ。」自家製造の餅饅頭もそれと同じくらい利益率がすこぶる高い商売です。しかし、利益率が高くても、売上は高々しれています。生ものですから売れ残ればロスが出ます。当時は、冷凍庫もないので、作りだめも利きません。しかも、自分の力で売らなくてはなりません。他の人が自分の商品を宣伝してくれはしないのです。
一方、店には、自家製造の餅饅頭の他に、「置き菓子」といって問屋さんが持ってくる煎餅や、飴、生菓子、チョコレート、ガムなどが並んでいました。時には、インスタントラーメンから魚肉ソーセージまで置いてありました。こうした「置き菓子」の利益はせいぜい2割です。私が中学生になるころには、親父が、帳面をつけていて(一日の売り上げを数えて締めること)、売り上げが一万円を超えると機嫌がよかったのを覚えています。果たして、「置き菓子」の売り上げの割合がどれくらいだったかは知りませんが、その割合が高くなれば本当は危険信号です。しかし、商売をしていると、とにかく目先の売り上げが伸びていけば単純に嬉しいものです。私が推測するに、当時の親父もそうだったと思います。だから、インスタントラーメンから魚肉ソーセージまで店に並べたんだと思います。「置き菓子」の魔力は、自分で宣伝しなくても、店に並べてある商品をメーカーがテレビなどで宣伝してくれれば何の苦労もなく売れるということです。まさに「煙草」と同じです。当時は本格的なテレビ時代を迎え、どんどん「置き菓子」の売り上げが伸びていたはずです。もし、親父が、その魔力に取り付かれて自家製造を止めていたら今頃は、兄もサラリーマンになり商売を継ぐこともなかったと思います。そこは、職人の肌で感じる実感が、何が大切かを自然と嗅ぎ分けたんだと思います。
手間賃と完成品
お盆や年末年始は稼ぎ時で、わたしも小さなころから手伝いをさせられました。お盆には、必ず饅頭をてんぷらにするというこの地域の習慣があり、朝から晩まで饅頭を作る日が数日続きました。仏壇に供える三角錘の形に積み上げた団子を作る日もありました。年末は、正月用の餅を手間賃をもらってついていました。昔は、どこの家庭も自分の家で餅をついていましたが、このころは、もち米を菓子屋に持ち込んで手間賃を払ってついてもらうという家が増えていました。しかし、親父は「手間賃商売は、儲からんからだめだ。」とよく言っていました。その内に、もち米も含めて餅を頼んでくる家が増えてきました。こうなると利益も結構大きかったのか「みんなお任せなら、ありがたい。」と親父は喜んでいました。手間賃となると、利益が裸にされてしまい、労働力が安い当時はたいした手間賃は貰えませんでした。その上、もち米をお客様が持ち込んでくるため、美味い餅がつけるかどうかは餅米の質で決まってしまいます。店の腕はあまり期待されていません。ところが、もち米を自分で仕入れて餅をついて完成品を売るとなると、良質なもち米を安く仕入れ、更には、美味い餅がつけるよう技術的な工夫が生まれて来ます。その結果、「たばこ屋の餅は、うまい!」という評判をもらうことも可能になります。たったこれだけのことで、商売の本質が変わってしまうのです。
変わりゆく時代とメーカーの真骨頂
私が、高校二年生の時に、兄が、東京の菓子学校を出て、修行を終えて帰ってきました。これからの時代は和菓子は廃れ、ケーキの時代だと、店の半分をケーキが占めるようになりました。その結果、「置き菓子」は、殆どなくなり、餅饅頭の卸も止めてしまい、純粋な自家製造自家販売の店に生まれ変わりました。我が家にとっては、清水の舞台から飛び降りるくらい大きな変化だったはずです。私が、大学進学で田舎を出てからすでに30年以上が経ちます。かつて、卸し先だった小売店は、殆どが、コンビニになったり、廃業をして、「○○商店」という店は殆どなくなりました。我が家のように、三代目が家業を継ぎ、四代目へと引き継げる商売を続けている店は何件かの自家製造を続けてきた店だけです。「煙草販売」や「置き菓子」といった商売は、流通の末端に過ぎず、自ら価値を作り出すことなく、他力本願であったがために、流通の大きな変化に飲み込まれて小さな店は存在意味を失っていきました。餅饅頭屋は小さくてもメーカーだったわけです。
兄は、今から8年前に苦境に立たされました。すぐ近くに大型のスーパーが進出してきて、テナントで入った安い菓子を売る店にお客様を奪われ、すっかり売上げが落ちてしまったのです。一時的なことだと最初は気にしていなかったのですが、なかなかお客様が戻ってこないので流石に慌てました。考えあぐねた結果、材料の質を上げ商品の値上げに踏み切りました。大胆ともいえるこの方法で、お客様は戻ってきました。こんなことは自分の商品によほど自信がないとできません。たとえ自信があってもなかなか怖くてできません。そんな兄を商売の先輩として私は尊敬しています。
私は、小さなころから商売を身近に見てきました。最近、ようやく自分の生家の商売が何であったかを理解できるようになりました。風の旅行社も基本はまったく同じです。自分しか作り出せない価値を作ること。これが私たちの存在意義だと思います。
※風・通信No28(2006年秋号)より転載