同じことの繰り返し?
「どうして毎日、こんな同じことをしていて、飽きないんだろうか。」私は、いつもそう疑問に思っていました。小さなころから長期の休みになると家業を手伝わされていた私は、拘束されて友達と遊べない自分の不満をこんな疑問に転嫁していたように思います。小学校の4年生ころからは、少し役立つようになったために、手伝う頻度も日数も増えて行きました。不満は益々増幅しましたが、高校生からは、手伝いという無償の労働から、アルバイトという待遇に変りましたので、嫌でも我慢してお金を稼ぐという理由ができましが、疑問はまったく消えませんでした。それどころか、「こんな仕事は嫌だ」とすら思っていました。
以前、この「風の彼方に」で紹介したように、私の生家は、南信州の飯田市で菓子屋を祖父の代から営んでいます。私が育ったころは、住居と菓子を製造する10坪ほどの工場(こうば)と間口2間半の店が一緒になった家屋でしたから、日々、祖父母や両親らの仕事を見ていました。毎日、工場に立ち、同じメンバーで、黙々と作っています。たまに、取引先の人が来て世間話をして帰って行きます。昔は、本当に、仕事自体ものんびりしていました。私には、そんな毎日が、淡々と同じことが繰り返される退屈な日々にしか思えなかったのです。
私が高校二年生の時、兄が東京での修行を終えて帰ってきて洋菓子の製造販売を始めました。饅頭がケーキに変わっただけで、やはり、同じことの繰り返しだと私には思えました。しかも、洋菓子ブームにも乗り、多忙を極め、夏の売り上げが落ちる時期を除いて、毎日、深夜まで家族労働は続きました。当然ですが「もう、こんなことをしていたら、倒れてしまう。」という悲鳴が家族中から挙がっていました。みんな疲れているのでイライラが募り、仕事上の細かな問題で始終言い合いになりました。しかし、じゃあ、どうするんだと言っても、明日から改善される訳でもありません。売れれば売れるほど、夕方から夜中に掛けて翌日使うスポンジ(カステラの部分)を焼く量が増え、マドレーヌなどの焼き菓子も作らなければなりません。しかし、田舎では、夜中まで働いてくれる人はなかなか見つからず、結局、家族労働になってしまうのです。みんな、不満はあるものの、また、翌日も、同じ労働に忙殺されるという日々でした。同じことの繰り返しの上に長時間労働、わたしの疑問は、益々募って行きました。
考えながら働く
私が、大学生になって、たまの休みに家に帰ってアルバイトをするようになると、私の疑問は、少し変わっていきました。兄が一つ一つのケーキのできばえを気にして、細心の注意を払いながら作っていることに気が付くようになったのです。私自身も、以前は、早く仕事が終わらないかと、そればかり考えていましたが、そんな兄の姿に気付き、補助作業とはいえ、自分の仕事に注意を払うようになっていきました。例えば、レモンケーキを焼くときに、一枚の鉄板に20個分の型がくりぬ いてあって、それを、一回焼く毎に、きれいに拭いて油を塗ります。実に単純な作業ですが、油の量などで、できあがりに差ができます。型からスルッと外れて表面がきれいに出来上がる場合もあれば、型にくっついてボロボロになるときもあります。一回一回、きれいに作ろう、と考えながらやれば、仕事は結構面白くなりますし、時間も何故か短く感じるようになります。できあがったレモンケーキを包むときも、いかに早くきれいに包むかを工夫します。そんなふうにしているうちに、仕事の面白さって「工夫して考えてやり、その結果を見ては、また考えてやる。」この繰り返しに実はあるんだ。と少し分かるようになっていきました。
自負心をもって働く
これは、私の実感ですが、年月を重ねると、「自分は、この道で生きてきたんだ」という自負心が生まれてきて、毎日、同じことができることが逆に嬉しくなっていくように思います。弊社のスタッフでも、ベテランになってくると、その人の独自の仕事のパターンが出来上がってきて、もうそれをやらせたら誰もかなわない、というくらい熟達してきます。旅行の仕事は、実は、大変地味なことの繰り返しですから、考えて働き自分で面白さを見出すと同時に、自分自身の仕事に対する自負心や誇りが生まれてこないと、本当の自分の世界は築けないと感じます。もちろん、自負心の中にも謙虚さが必要だと思います。
真心をもって働く
「料理は真心」といいますが、たまに料理するくらいじゃ働くとは言えませんが、毎日となると、逆に、それこそ真心を込めて工夫して考えてやらないと、ただの辛い苦役になってしまいます。私は、料理をほぼ毎日やりますが、食べる人においしいものを食べさせたい、と考えて工夫してやれば、料理は実に楽しいしものです。ただ単に、食えればいいんだ位に思うと、まったく楽しくない労働になってしまいます。ねぎの味噌汁は、だしをちゃんと取って、味噌を入れたら煮立たせない。ねぎは、輪切りにするが生っぽい方が好きな人と少し煮えたほうがいい人がいるから、それによって味噌汁に入れておく時間を加減したり、輪切りの厚みを変える。この真心こそは、旅行の仕事そのものです。「行ければ良いんだろう」などという気持ちじゃ絶対いい旅行にはならないし、そんな仕事は面白いはすがありません。
最近は、引きこもり、ニート、フリーター、が大きな問題になっています。日本では、非正規社員が半数を超したと言われます。働くことに生き甲斐を求めるなんて古臭いのかもしれません。しかし、働くということは、自分の心の在りよう次第で、面白くもなるし、つまらなくもなります。面白ければ、上達します。考えて働く人は大きな力をつけて成長し、仕事がどんどん面白くなっていきます。年月を重ねれば、生き甲斐になって行きます。好き嫌いで働く人は、本当に好きだと思える仕事は、逆に見つけられないものです。好きだということと面白いということは別物です。好きな仕事などそう簡単に見つかるはずがありません。最初から面白い仕事なんてまずありません。自分で仕事を面白くする。これが、一番肝心なことです。
私の親父は、今年で82歳になりますが、未だに車で家から店まで2キロほどの道を通い、現役で働いています。親父の職人としての技術を発揮する場は、今はもうありませんが、それでも菓子を包んだり、雑用をしたりしています。「体が動かなくなるまで働く。」これが職人の世界です。母も、衰えてはきましたが、もうすぐ80歳の体を動かして家事を毎日こなしています。「働けるうちが幸せな、働けなくなったらおわりだに。」二人とも口を揃えてよくそう言います。働くことは、私にとっては、人生そのものであり、自分の心の中に定年があるとは思えません。きっとこれは、血筋なのかもしれないと諦めています。そして、「仕事だけは捨てたらあかん」と人にも言うし、自分にも言い続けています。
※風・通信No31(2007年夏号)より転載