食べるということ

私の好物

信州で育った私は、小さな頃から海の幸をほとんど知らないまま大人になってしまった。食卓に上る魚といえば、塩鯖がほとんどで、秋になればそれが秋刀魚に替る。時には鯵の干物も出たが、食べるところが少なくて私にとっては鯖の方が上等だった。一時、トビウオやニシンがよく出た。トビウオは、秋刀魚より身は柔らかだが小骨がいっぱいあって食べ難い。ニシンは、大方は白子を抱いていた。兎に角、どんな魚も、大抵は醤油をかけて食べた。そうすれば、一切れの塩鯖の切り身で、ご飯三杯は食べられた。こんな魚でも、私の好物だった。
日曜日の昼ご飯には、おふくろに、鯖の水煮の缶詰を開け、家族全員の皿に盛り付ける手伝いをよくさせらた。朝食の余った味噌汁と、冷や飯、水煮の鯖にこれまた醤油をたっぷりかけて細かく潰してご飯にぶっ掛けて混ぜて食べる。これも私の大好物の一つだった。
他にも、好物はあった。例えば、雑魚(しらす)をご飯の上に掛け醤油を少しかける。これが「雑魚飯」だ。魚肉ソーセージに醤油を掛けて食べる「ソーセージご飯」、里芋の味噌汁をご飯に掛けて食べる「猫まんま」。共通していることは醤油をかけるかご飯にぶっ掛けること。いまだにこの癖は抜けない。舌が味を覚えている。
もちろん、こんな物ばかり食べていた訳ではない。これじゃ、栄養が偏る。家の畑ではおじいちゃ(私の田舎では祖父のことをこう呼ぶ)が野菜を作っていたから食卓に上るおかずの大半は、もちろん野菜だ。じゃが芋、茄子、胡瓜、人参、長ネギなど。これらは、ほとんど煮物か塩もみになって出てくる。やっぱり、煮物は子供のころは、あまり好きではなかった。しかし、不思議な物で、これらは大人になって大の好物になった。山ウドやささげの胡麻和え、胡瓜の粕もみ(胡瓜を塩もみして酒粕と砂糖を入れて和える)、皮付き新ジャガ小イモの醤油と砂糖の煮っ転がし。おじいちゃは、この煮っ転がしを食べる度に「この煮汁は、鰻丼のタレに似ているぞ。美味いなあ」そう言っていたのを思い出す。鰻丼は年に一遍、土用の日と決まっていた。年に一回しか食べられないものは、子供の好物にはならない。煮っ転がしの方がましだ。

おかずは一品

私にとって、今と昔の食卓の一番大きな違いは、品数だ。「今日のおかずは何?」「今日は、ウドの胡麻和え」そうおふくろが答えた時は、もう、目の前は真っ暗だ。その日の夕食には、大き目の皿にウドの胡麻和えが山盛りになる。その他のおかずは、漬物に、味噌汁くらいだ。要するに、いつも、おかずは一品。小学生のころは無理やりおふくろにねだって、魚肉ソーセージを5cmほど切ってもらい醤油をかけて少しずつかじりながらご飯を3杯食べる。だから、ウドは嫌いで魚肉ソーセージが好物になった。

インスタント食品

考えてみると、インスタント食品や加工食品を子供のころから食べる様になったのは、私たちの世代からかもしれない。小学校に上がる前、東京の親戚が遊びに来て「カレーライス」なるものを作ってくれた。“東京の味”だ。それ以来、カレーライスが、しばしば登場するようになった。SBのカレー粉を溶かしうどん粉でとろみをつけるだけだったから味がない。だから、ソースを一杯掛けて食べた。他にも、シチュウ、マーボードーフ、お茶漬け、インスタントラーメン等、数え切れないくらいインスタント食品が食卓に上るようになりおかずが増えて華やかになった。インスタント食品は、味が刺激的だった。地味な自然の味しか知らなかった私の舌は、これを大いに歓迎した。少なくとも、子供の私にとっては、野菜の煮物よりずっと美味しかった。今は、アジア諸国でどんどんインスタント食品が浸透して伝統食を破壊している。私だって、漬物に味の素を白くなるほど掛けて食べていた。当時は、誰もそれを止めてくれる人はいなかった。アジアもきっとそうだ。

食べるということ

それでも、私たちの時代は、まだまだ、おふくろの味が残っていた。素材に手を加えて食する。それが食べるということの基本だった。また、昔の食事は、世代から世代へ受け継がれた伝統食を中心に構成されていた。煮物はその典型だ。食べるということは、実は、伝統の継承でもあったのだ。また、日本人やネパール人が味噌汁やダル(豆)スープでたんぱく質を補ったり、イヌイットがビタミンDを生肉から取って日光不足を補っていることから分かるように、伝統食には、人間が環境に適応して生きていくための知恵が結晶している。

一汁一菜

第4代の経団連会長土光敏夫氏(故人)が、毎朝食めざしを食べていたように、一汁一菜に適度なたんぱく質と多少の脂肪を加えれば、実は十分だ。外食が多い私は、まだまだ、そんな質素で理想的な食生活はできないし、雑魚飯やソーセージご飯などは今でも食べるしインスタントラーメンも食べる。あまり褒められたものじゃない。しかし、次第に簡単な和食に戻ってきている。味噌汁とご飯と野菜の煮物、それが究極の日本の伝統食なのかもしれない。心の充足ということも、食べるということの重要な要素だが、美味いものが心を満たしてくれるかといえば、そうでもない。もっと、伝統食を大切にしたほうがいいと最近は思う。

※風通信No34(2008年6月発行)より転載

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