天国のような場所

優しく受け入れてくれた伊豆木

父の話によれば、母の実家は、昔「お蚕様」で儲けて、あの大きな家を建てたそうだ。確かに大きな家だった。太い檜の柱や梁をふんだんに使った大きな古民家を想像していただけばよい。その家が蚕のシーズンには、全ての畳が外されて、囲炉裏を切った居間と台所を除き、家中が蚕棚になった。
養蚕は、甲信地方や南・北関東、九州などで盛んに行われ、農家に大きな現金収入を齎した。蚕には「お」がついて「様」までつく。当時の農家にとっては、「お蚕様」は、神様以上の存在だったわけだ。
母の4人兄弟の内、長男は戦死していて、その下の母と妹は嫁ぎ、跡継ぎとして期待された次男は東京の大学を出て田舎に戻ったものの、飯田の町に出てサラリーマンになってしまった。従って、私が物心ついたころには、広い家に祖父母だけで暮らしていた。

当時は、高度経済成長真っ盛りのころである。人々は、仕事を求めて田舎から都会に流入し、誰しもが「文化的な生活」を夢見た。今でこそ、「農のある暮らし」とか「スローライフ」などと注目されるが、当時はむしろ、農業は“非文化的”で“時代遅れ”くらいのイメージだった。
しかし、子供の私にとっては、祖父母が二人で暮らす伊豆木(*)は天国のような場所だった。私は、母の里帰りについて行き、大きな家の廊下を走り回り、広い庭と、牛小屋の脇から続く裏山で思い切り遊んだ。祖父母は、私に畑仕事を手伝えと言ったことがなく、何をしても、決して怒らず、いつも優しくしてくれた。だから、伊豆木の全てが好きだった。
だが、子供とは勝手なもので、小学校の5年生ごろからあまり伊豆木には行かなくなってしまった。もっぱら近所の友達と遊ぶことが多くなり、友達のいない伊豆木には、殆ど興味がなくなったのだ。
ところが、大学受験に失敗し高校を卒業して時間がぽっかり空いたとき、ふと思いついて、一人で伊豆木に行き2週間ほど過ごした。何もない12畳間に寝転んで長編小説を読んだり、裏山を歩いたり、凧を揚げたりして一人でのんびりと過ごした。このときも、祖父母は何も言わなかった。手伝えとも勉強しろとも何も言わなかった。それなりに敗北感を味わっていた私には、そのことがとても有難かった。やはり、伊豆木は、私にとっては、天国のような場所だった。
年老いた二人の生活を可哀そうだという人もいるが、私には、二人だけの暮らしは、とても楽しそうに見えた。何気ない日常会話を交わしながら、70歳を過ぎても仕事のパートナーでもある。そんな二人の空間が、私には心地よかった。
*長野県飯田市伊豆木。

「自然に囲まれた静かな暮らし」への理想と現実

ある日、農作業のために飼っていた牛のお産があった。子牛は、逆子で足から出てきたので、祖父が必死に引っ張り出したが、死産であった。祖父は、「しょうないなあ」と言って一輪車に子牛を乗せ、祖母と二人で裏山に埋めに行った。
羊水で濡れたままの子牛は、一輪車の上でだらんとしていた。日常生活の極ありふれた出来事かのように淡々と処理する祖父母の姿が深く印象に残った。静かな暮らしとは、こういうことの繰り返しかもしれないのに、祖父母の気持ちは、どこまでも穏やかだった。
実は、最近、先輩が八ヶ岳の麓で田舎暮らしを始めた。来年からは年金も貰えるから仕事を減らし、月の半分以上は田舎で過ごすそうだ。私自身は、まだまだ明日の稼ぎをどうしようかと悩む毎日だから、先輩のようにも、ましてや、私の祖父母のようにもなれないが、自然に囲まれた静かな暮らしには心が惹かれる。
考えてみると、私たちの仕事は、旅を通して、心を癒していただく場所を提供しているともいえる。場所には人も含まれる。3月に研修に来たモンゴルの「ほしのいえ」のスタッフ、モチコが、昨年にも増して素晴らしいとお客様から大変褒められた。やっぱり人が大事だ。
モンゴルで私たちが作り出している世界は、正に「自然に囲まれた静かな生活」なのかもしれない。なのに、「そらのいえ」の温泉が雨で使えなかったり、シャワーが出なかったりで何件かお叱りも頂き、お詫びした。現実は、なかなか思うに任せず理想には程遠い。
まだまだ自分は静かに暮らせないが、今は、この仕事ができることに感謝し、何事も諦めず前向きにやろうと思う。
この夏も、多くのお客様にご利用いただいた。この場を借りて改めて御礼申し上げたい。

※風通信No46(2012年11月発行)より転載

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