1997年の8月、あるNGOのツアーに参加し、パプアニューギニアへ行った。村でホームステイをしたが、その村は、森林伐採を拒んで昔ながらの生活も守っていた。約50年前に『すばらしい世界旅行』というテレビ番組で、私が興味深く見ていた“原始生活”がその村にはそのまま息づいていた。違うところはペニスケースの代わりに短パンを履き、Tシャツを身に着けプラスチックの食器を使っていたことくらいだ。
その後パプアニューギニアの首都・ポートモレスビーで歴史博物館を見学した。展示を見て愕然とした。なんとこの国では、狩猟採集生活がそのまま20世紀近くまで続いたのだ。
麦が富の蓄積を可能にした
『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著、草思社文庫)が書かれた切っ掛けは、このニューギニアのヤリという青年が「何故、私たちはヨーロッパのような文明を獲得できなかったのか」と著者に問いかけたことだった。
その理由は、農耕作物として穀類を獲得したか否かにあった。穀物は、殻で保護された籾の形で長期間保存ができ、たった一年あるいは年に複数回という短いサイクルで再生産が可能だ。これがメソポタミア、インダス、エジプト、更にはユーラシア大陸という地域が莫大な富を獲得し、穀類を獲得できなかった他の地域に比して一早く発展した理由だと説明している。ニューギニアは、イモ類だったために富の蓄積が進まず人類の発展史から置き去りにされてしまったというわけだ。
人類の発展は斑模様であるが、農耕社会から始まった富の蓄積は、資本主義によって最高潮に達し、人類に大いなる繁栄を地球規模で齎したことは誰しも疑いようがない。
資本主義が危ない
ところが、近年、その資本主義の限界が叫ばれるようになってきた。何故か。フロンティアから収奪して少数の先進国が栄えるという構造こそが資本主義の歴史であり本質的な姿であるが、そのフロンティアが、もはやアフリカぐらいしか残っておらず、資本主義は成長がやがて止まり終焉を迎えると多くの人が説明している。
世界恐慌以来、資本主義の凶暴性を思い知り、社会の歪みを正して資本主義の延命を図ろうと先進国は努力してきた。国連を中心に貧困撲滅運動も行ってきた。残念ながら、発展途上国の経済発展を促せば促すほど、貧富の差が拡大する結果になり、先進国の製品を買ってくれる中間層は育たず歓迎すべき消費国にはならなかった。それどころか、経済発展を遂げたBRICs*などは先進国のライバルとなり資本主義の矛盾はますます大きく膨らんでしまった。
そこに、新自由主義が登場し、グローバリゼーションが一挙に進み、資本主義の競争原理だけがむき出しとなり、自己責任という言葉で極端な貧富の差までも正当化されるようになった。その結果、資本主義の宗主国ともいえるアメリカでは、上位20%で90%以上の富を所有し、中間層が消滅しつつある。現在、社会の歪は耐え難いところまで大きくなってしまっている。そのことへの不満がトランプ大統領を生んだと言っても過言ではなかろう。
「IoT」で共有&物々交換!?
ならば、再度、資本主義の矛盾点を克服し、一定の枠の中でバランスを取って生産と消費を繰り返せばいいではないか、と私は思うのだが、そんな社会主義的な世界は巧くいかないと歴史が証明している。
そう思っていたら、面白い本を紹介された。『限界費用ゼロの社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』(ジェレミー・リフキン著、柴田裕之訳NHK出版)という本である。資本主義は、その本来の原理である効率性や生産性を極限まで追求するとモノやサービスを一つ追加するコスト(限界費用)が限りなくゼロに近づき、モノやサービスは無料に近づくから資本主義は衰退し、その次にやってくるのが「共有型経済」だと書かれている。その兆候がシェアーリングエコノミーとして顕在化してきており、オランダではすでに「共有型経済」を原理としたコミュニティ実験が行われている。
私は、こんなことを書きながら情けないことにまだほとんどこの本が理解できていない。しかし、その主役が「IoT*」(モノのインターネット)であると知って、ならば本当に現実化するかもしれないと、何となく、思い始めた。「共有型経済」とは、高度にデジタル化した「I o T」によって、きわめて効率的にモノを共有し物々交換すれば市場経済が要らなくなる。どうもそういうことらしい。
私が訪れたパプアニューギニアの村は、今もきっとあのままだろう。人類の発展から“最も遅れた人々”だが、それこそが「共有型経済」だと言えないだろうか。もしかしたら最先端かもしれない。
*BRICs … ブラジル、ロシア、インド、中国の4カ国総称
*IoT … Internet of Things(モノのインターネット)
※風の季節便(2017年春〜秋号)より転載