コピペ文化って?

つむじかぜ473号より


中野に、4月から、早稲田大学がやってくるが、その早稲田大学が揺れている。小保方氏の「コピペ論文」だ。世紀の大発見も、瞬く間に色褪せてしまった。

最初は、何かの手違いでミスをしたか、共同研究だったので分業していたが故の間違いか位に思っていたら、どうもそうではないらしい。同氏が、早稲田大学の院生だった頃の博士論文に、かなりの量で明らかな「コピペ」が見つかったからだ。

しかし、だんだん事態が明らかになってくればくるほど不思議でならない。世界が注目する論文を発表すれば、過去も含めて、自分がしてきた“コピペ”がばれると思わなかったのだろうか。

“コピペ”のことを“剽窃”とか“盗用”と新聞などでは書かれているが、どう考えても、小保方氏に“盗んだ”という罪の意識は全くないように感じる。「え~?いけないんですか?」てな調子なのだろうか。

「博士論文を査読する教授だって、コピペなどということは絶対にない、ということを前提に読んでいるから、よほど、その分野に精通していたり、英語の論文などを読破していないと解るわけがないよ」

この4月から、藻類の研究で大学院に進む長男が、なかなか的確なことを言っていた。院生とはいえ研究者の端くれが、コピペなどという恥辱的なことはやるはずがない、ということが前提になっているというのだ。そりゃあそうだ。学部生が、単位を取りたいためだけにコピペをするのとは全く意味が違う。

私だって、このコーナーを書きながら、ネットで検索して、そこに書いてあることをコピペして文章を短くして書くことがある。自らの考えや主張をコピペすることはないが、事実関係や歴史、数字など物事を説明するときには、元をコピペして、必要な箇所だけに短くして書く。これもいけないのだろうか。

「インターネットで手に入るものは、誰でも使える。ネットに出ているのにそれを使ったら盗んだなどとどうして言われるのか」きっと、そう思っている人が増えているのだろう。若者だけじゃない。私たち年配の大人の中にも広がっているのかもしれない。

大学では、「自分もやばい」と思っている人が結構いるかもしれない。ネット社会は、色々な落とし穴がある。見え難くくなっているだけで基本は変わっていない。

★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。

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