津田梅子その2

つむじかぜ492号より


津田梅子は、1871年(明治4年)、岩倉使節団に満6歳で加わり、11年間のアメリカ留学を終えて1882年に帰国した。何故、かくも幼くして長期のアメリカ留学などに加わったのか。すべては、父、津田仙の当時としてはすこぶる開明的な考え方による。

津田仙は北海道開拓使の嘱託であったが、当時の開拓使次官、黒田清隆(後の総理大臣)が企画した女子留学生に梅子を応募させた。山川捨松もこれに応募して梅子と同道することになる。11年後、北海道開拓使の資金が続かなくなり帰国命令がでてアメリカ留学は中断されたというわけである。中断とはいえ、11年間、すべての費用を北海道開拓使が出し続けたことには感心してしまう。

黒田清隆という人も、女子を留学させるなどという、当時としては破天荒なことをやってのけたのだから凄い。薩摩武士で軍人。どうも私のイメージとは違っている。

梅子は、帰国後、官費で留学したにも関わらず、国からはなんら仕事の斡旋もなくほったらかし状態という処遇に苛立ちながら、女子教育を一生の仕事にしようと意を固めていく。

1889年、女子教育を自分の手で行うなら、もっと高等教育を受ける必要があると考え再び渡米。フィラデルフィア郊外のブリンマー・カレッジで生物学を専攻し、1892年に帰国。再び華族女学校に務め、1900年ついに「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立している。36歳、日本語がまったく話せない状態で帰国してから18年が経過していた。

塾を開校して約5年間、梅子も協力者アリスベーコンも無報酬で教鞭を取り続けている。梅子の志がまっすぐだったためだろうか。その他にも、生涯を通じて物心ともに応援してくれる多くの人たちがいた。この人をひきつけ、更には、応援の輪を広げていくその力には驚くばかりである。

その理由は、津田梅子の生き方になったと思う。決して、アメリカ留学を鼻にかけたり、日本を卑下して否定したりはしなかった。アメリカに比べ、どんなに日本が文明的に遅れていても、厄介な習慣に縛られていても、日本を否定することはしなかった。むしろその違いを客観的に分析し、自ら生きる場を日本と定め、日本の女子教育に生涯を捧げた。圧倒的な使命感と志の高さが人々を惹きつけたのだと思う。

先週書かせていただいた、大庭みな子著「津田梅子」(朝日文庫)に紹介されているアメリカ留学中のホストファミリーであったアデリン・ランマン婦人への膨大な手紙から、そんな津田梅子像を読み取ることができる。

津田梅子は、生涯、公式な文章、手紙、日記などすべて英文で通した。彼女にとっては英語は語学ではなく、母国語に相当するアイデンティティの表現であったに違いない。なかなか素敵な生き方である。

★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。

シェアする