話題におされてつい『火花』を買ってしまった。芥川賞を読むのは久しぶりだ。ちょっと小難しい表現に、頭が痛くなるのを我慢しながら読む感覚が懐かしい。もやもやした感覚が残った。“芥川賞のもやもや感”ってやつかもしれない。これがいいのかもしれないが、もうこの年齢では馴染めそうもない。
一番初めに読んだ芥川賞は、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969年7月芥川賞受賞)だったと思う。なんだかさっぱり解らなかったが、間違いなく“文学の香り”がした。少し背伸びした感覚と、“曖昧さと混沌こそ文学だ”くらいな感覚を味わって悦にいっていたような気がする。
何時からか、芥川賞を読もうという気がスッカリなくなった。自分にとって本を読むことが、成長への肥やしでもなんでもなくなって、娯楽になったとき芥川賞は私にとって無意味な賞になった。一方、本屋大賞は、間違いなく面白かった。
そういえば、外国の小説も読まなくなった。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ヘルマン・ヘッセ、ドストエフスキー、トルストイ、カフカ、チェーホフ、トーマスマン などなど。とにかく外国の小説は、同じことを何回も繰り返し、かつ、無駄な描写が多くて長い。今でも繰り返し読むのは『老人と海』くらいである。これだけは大好きだ。
大学時代は、小説ばかりだが200冊ほど読んだ。川端康成、三島由紀夫、大江健三郎、安部公房、太宰治などなど、とにかく有名どころの文庫本を古本屋で手当たり次第に買ってきて読んでいた。今から考えれば随分無駄な読み方をしたものだ。ただ、何を読んだら良いか教えてくれる人はいなかった。
とにかく、今は気楽に本が読めるようになった。電車の中でもどこでもできる最高の娯楽である。最近は、『蒼穹の昴』その続編『珍妃の井戸』、さらには『中元の虹』、最近刊行になった『マンチュリアン・リポート』と(いずれも浅田次郎、講談社文庫)清朝の歴史小説に耽溺している。
歴史に関しては、『○○史』のような歴史解説本を読んでも、一向に頭に入ってこない。もう覚えようという気もないし、読んでもすぐ忘れてしまう。ところが、歴史小説で読んだ部分は、こういう歴史解説本を読むとその背景などが理解できて一層面白くなる。
科挙制度の士大夫たちは論語など四書五経を暗唱した。暗唱するには、一定のリズム・調子が整っていないとなかなか覚えられない。この点は文語の方が遥かに暗唱に向いている。今から、論語を暗唱するのもよいかもしれない。年齢的に無理かもしれないが。
最後に『火花』を読んだ感想を一言。夢中になったらそのことしか見えない人がいる。夢中になってるつもりでも周りが見えてしまう人がいる。前者は、天才。後者は凡才。前者は世間に馴染めず、後者は立派な社会の構成員になれるのかもしれない。自分は、さて、どちらになりたいんだ。