12月9日、野坂昭如氏が亡くなった。本棚から「蛍の墓」を引っ張り出して再読してみた。いやはや、解り難い文章である。どうしてこんな文体なんだろう。と首を傾げてしまう。多少慣れたからといって、理解しやすくなるような文章ではないが、いつの間にか野坂ワールドに引き込まれていく。不思議な文体である。
「蛍の墓」ほど悲しい話はなかなかない。しかも、野坂昭如氏の実体験に基づいているというから迫力がある。野坂昭如氏は、後世、『アドリブ自叙伝』(筑摩書房)の中で次のように語っている。
「一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった」
実に正直な人である。きっとこの体験に負い目があったに違いない。人は様々な負い目を抱えているものだが、それを曝け出すことなど、通常はできない。隠しながら生きていくのが普通であろう。
同氏が脳梗塞に倒れたのは2003年5月26日。同氏のオフィシャルホームページは5月9日で終わっている。以下が、それである。
9日(2003年の5月9日)
曇。4,00am起。ゲラ手入れのうち、すべて書き直したくなり、ボールペン放置して、ぼんやり。6,30am、庭の雑草むしり取る、道具は用いず指で引き抜く。50年近い以前、禅寺で半年草むしりをしていたから、いちおう手慣れたもの。合間に素振り用木刀ゆっくり振る、すぐ息が切れて情けない。気持ばかり焦って、小説は書けない。1,00pm眠、3,00pm起。下高井戸、書店で「フロイト先生のうそ」、古書店で「軍事言論」「兵士の物語」。昭和ヒトケタ、何度も書きかけては挫折、金井美恵子さんのオハコを借りれば、「ヘトヘト」。なんとしてでも書く。講演会の依頼しきり、身のほど知らずながら引受けて、とにかく若い皆さんに、どう受取られようが、しゃべるのが、役目だろう。夜、手紙を書く、結局、徹夜。
他の日も、似たような感じの内容で健康的な生活とは到底いえない。TBSラジオの「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」で、「野坂昭如からの手紙」というコーナーがあった。何回か聴いたことがある。既に身体は自由が利かなかったようだが、文章は、鋭くかつ解りやすかった。
TBSラジオが20日午後7時から1時間、野坂昭如氏の特集番組を放送する。楽しみである。