*風のメルマガ「つむじかぜ」584号より転載
近代旅行業の祖は、英国人のトーマスクックというのが定説だ。1941年7月5日、ミッドランド・カウンティーズ鉄道の臨時列車を仕立て、往復鉄道運賃と食事代込みで1シリングの日帰り旅行を実施した。その後、1851年ロンドン万博の旅行で大成功を収め、1855年パリ万博で海外旅行へ進出。19世紀の後半、世界的なブームとなった、世界一周旅行にまで事業を拡大し発展させた。
しかし、先週、江戸時代に伊勢参りで活躍した御師(おんし・おし)をご紹介したが、古くは、平安時代末期に貴族の間で流行した熊野詣の世話をした熊野御師が、祈祷や宿泊の世話や道案内をしていたというから驚きだ。しかも、檀那といって固定の顧客を持っていたというからそのマーケティング手法たるや恐るべしである。その後、鎌倉から室町時代にかけて武士や農民に拡がり、江戸時代に大旅行時代を迎えるわけである。
江戸時代に人々の大往来を支えたのが、五街道や脇往還などの街道整備である。街道には宿場が置かれた。東海道なら53次、中仙道が69次と、かなりの数があった。宿場に関して、「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」の『東海道について』というHPの中で次のように説明されている。
『宿場には、文字通り旅人を宿屋に泊めたり、休ませたりするという役割がありましたが、最も重要な役割として、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場まで運ぶという業務がありました。そのため宿場は、本陣、脇本陣、旅籠などの宿泊施設と、継ぎ送り業務を行う問屋場が中心となっています』
なるほど、参勤交代には大名が泊まる本陣や旅籠が必要だ。郵便・飛脚制度は、お手本は中国だが、国を治めるために重要である。早飛脚は、江戸から京までの約500kmを3日で継いだというから日本人の生真面目さが伺われる。
『江戸の旅文化』(神崎宣武著、岩波新書)によれば、旅籠の宿代は1泊2食付で約200文(5,000円~6,000円)とけっして安いとはいえない。これでは長旅にはつらい。庶民の味方は木賃宿(食事なし自炊)があり薪代として8から15文程度を払うとある。これなら長旅も可能であろう。否、こんな宿まであったのだから、それだけ庶民が旅したということである。
旅は、やはり人生の大きな楽しみである。形もスピードも変わったが、“旅を楽しむ心”は益々旺盛になっていると感じる。思いのほか、私たちの仕事には、古い歴史があるということを知り大変嬉しくなった。
★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。