*風のメルマガ「つむじかぜ」626号より転載
今、浅草は外国人観光客で大変な活気である。それにつられてか、日本人も浅草を訪れる人が増えているようだ。しかし、浅草に行っても、さて何をするのかと考えたら、浅草寺と仲見世くらいしか出てこない。せいぜい「花やしき」に行ってみるか、スカイツリーと組み合わせるかくらいになってしまう。
そんな浅草は、かつては東京の文化発祥の地として活況を呈した。国際劇場や松竹演芸ホール、さらにはロック座、フランス座などのストリップ劇場がひしめき、踊りや漫才、落語、コントなどで多くの芸人がこの浅草から生まれた。渥美清、東八郎、萩本欽一、ビートたけしらもこの浅草から育っていった。
先日、ビートたけしが、フランス座のエレベーター係から芸人の道に入ったその軌跡を描いた『浅草キッド』を読んだ。如何にもビートたけしらしく、とにかく描かれている内容は、滅茶苦茶な出来事の連続だが、シリアスさをあまり感じさせない作風のせいか意外にすんなりと読めてしまう。
師匠の深見千三郎とのやり取りは、それ自体がギャグでつい笑ってしまう。深見千三郎が「芸人が芸で笑わせないでどうする」と、ビートたけしたち若い芸人を叱り飛ばす場面があるが、ドタバタして笑わせるようなのは芸じゃないということがさらっと描かれている。深見千三郎が、引退してから女房とも死に別れ、挙句は、マンションの自室で火事をおこして焼死してしまう話は、浅草の衰退とオーバーラップしてなんとも物悲しい。
ビートたけしは、この他にも、本を何冊か出している。『菊次郎とさき』では、両親のことを描いた。続けてこれも読んでみた。ビートたけしは、団塊の世代で私より9歳年上であり、足立区の梅島育ちという点で世代の共有感はないが、多少なりとも親近感が沸いてくる。私は、大学を出て6年間、足立区の西新井に住んでいたから、なんとなく雰囲気が分かるのだ。
ビートたけしの父、菊次郎は「ペンキ屋」を生業とし、しらふではまじめで気の弱い人間だが、酒を飲むと気が大きくなってしまうという職人の典型のような人間だったようだ。職人は、最近でこそ尊敬されたりもするが、昔は、社会的には評価が低く、手間賃も安く貧乏を絵にかいたような生活だったにちがいない。
しかし、ビートたけしは教育熱心な母親、さきの手で、大切にとは言わないが、どこか、結果として「ひとかどの人間になりたい」という強い意志を持ち続ける人間として育てられた。母、さきとの「勝負」も驚きの連続である。
ビートたけしは、フランス座での下積み時代も決して辛くはなかったと書いている。苦労話もビートたけしにかかればギャグになる。いやはや面白い。
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