*風のメルマガ「つむじかぜ」646号より転載
10月2日の月曜日、沖縄へ向かう朝、羽田空港で『死ぬほど読書』(丹羽宇一郎著 幻冬舎新書)が目に入り「死ぬほど?妙な題だな」と題に惹かれて手に取り目次に目を通した。なるほど、丹羽さんらしいなあと思い買ってみた。
「はじめに」で丹羽さんは、今年の3月、朝日新聞の「声」欄に投稿された「読書はしないといけないの?」という学生の意見について取り上げていた。「本を読まなくてもなんら困らない。もっと役に立つことに時間を使ったほうがよい。読書もスポーツと同じで趣味の一種だからしなくてはだめだというのはおかしい」。そう学生は主張する。
これに同調する中学生の投書も後にあったそうだ。丹羽氏は、「読みたくなければ読まなくていい」。とばっさり切り捨てていたが、私も同感である。自己の人間形成をどうするかは個人の勝手である。
但し、悩まなければ困らないし、深く考えなければ本に学ぶ必要もない。きっと新聞も読まないだろうから、本人は気が付かないだろうが、自分の貧弱な経験やSNSの狭い世界でしか思考が及ばない。広い世界を知ることや、自己の成長を求めなければそれでいい。
先月、モンゴルでJICAの方とお話していたら「モンゴルの若者の趣味は、第一位が読書です。それがこの国の凄いところですね」。とおっしゃっていた。本当にそうかは分らないが、読書が趣味と答えることにまだステータスがある。それがモンゴル人の価値基準であることは確かだ。
1979年に社会学者エズラ・ヴォーゲルが『Japan as Number One』を著したとき、日本人は米国人の倍の時間を読書に費やしている、と著者が驚嘆し日本の驚異的な発展の一因にあげていることを以前、ここで紹介した。本当にそんなに読書をしていたかは分らないが、当時は、読書をすることへの尊敬の念があったことは確かである。
丹羽氏は、見栄が人間を成長させるともおっしゃっている。学生の投書は、読書の価値だけ何故特別視するんだといっているのだが、実は、見栄を張ってまで読書が趣味だなどという価値観が若者たちの間にない。ということを物語っている。読書だけではない。あらゆるものへの見栄がなくなったように感じる。できないことを恥ずかしいとは思わない。それが普通である。
私は、なんとか、この普通を壊したいと孤軍奮闘中である。
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