*風のメルマガ「つむじかぜ」723号より転載
江戸時代の時間は昼間と夜ではその長さが違い、季節によっても違っていた。日の出のおよそ30分前を明け六つ、日没の30分後を暮れ六つといい、その間を五つ、四つ、九つ、八、七つ、六つに6等分し一時(いっとき)、一時の1/4を一刻と数えた。したがって夏至の一時は2時間40分くらいで、冬至の時は1時間50分くらいになった。
いったい、どうやって時を知ったのか。太鼓や鐘が用いられたそうだ。上野の寛永寺の時の鐘は、「花の雲、鐘は上野か、浅草か」と芭蕉に詠まれた。上野が鳴らすと、それを聞いて、市ヶ谷、赤坂田町圓通寺、芝切り通しの順で鐘が鳴ったそうだ。それだけで時刻はずれてしまうがそんなことは誰も気にしない。
現在の定時法を当然のことと思っている私たちの感覚からすると、この不定時法は不思議な時間概念だが、それで江戸時代は何の不便もなかったというから羨ましい。要するに、1日を活動する時間と休む時間の2つに分け、日付の変更は明け六つだったのである。太陽とともに起きて働き日が暮れたら休む。人間には、元来そうした体内リズムが刻まれているというが、これが現代人の我々はとんでもない無茶をしているのである。
何故、日本人は定時法を採用し分刻みの時間で動くようになったのか。近代化の中で不定時法ではあれこれ都合が悪かったのだろうが、鉄道が開業したのがその原因だといわれている。新橋発朝8時、品川8時8分、川崎8時26分・・・横浜8時53分。こんな調子で、ちゃんと分刻みで時刻表が作られていた。果たして、時間が守られたのかは分からないが、出発のかなり前から駅で待っている人が多かったそうだ。やっぱり、日本人である。
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