超長い間、ご無沙汰してしまった。
もうこの日記の存在さえ忘れてしまった人も多いのではなかろうか。 実はこの一ヶ月間、ラサを離れ、西チベット、そして新疆ウイグルを大きく一周(コルラ)する旅にでかけていたのだ。
多くの人が経験することだと思うが、非常に内容が濃く、そして長期に渡る旅のあと、一種の放心状態というか、虚脱感というか、ある意味存在そのものが「ゼロ」になるような感じがすることがある。 それは年齢や性別や旅の形態に関係なく、「旅を旅した者」に等しく体験されることである。 僕の今の精神・肉体の状態は、ちょうどそれに近い。
(ツァンダのトリン寺にて。 仏塔群の跡。)
カイラスだけでも十分すぎるほどの巡礼・旅行の目的地である。 それを、グゲ仏教遺跡、ピヤントンガル遺跡、そして古代チベット王国であるシャンシュンの古都跡、などに加えて、あの新疆ウイグル −中央アジアの古代仏教文化の根付いたところにイスラムが激しくブレンドしたあの土地!− をまわってきたとなると、もちろん消化などできるわけはなく、せいぜいできることといえば、その旅の記憶の断片を集めて、半ばチャネリング状態になりながら、あとからあとから湧き出る妄想に心身ともゆだねることぐらいであろうか。
アパク・ホージャ墓(新疆ウイグル・カシュガルにあるイスラム陵墓)
時間は動きながらも止まっており、そして空間の中を超スピードで駆け抜けながら、でも一度に体験される空間は、一点の静止空間にすぎない。 文字通り「時空を翔る」もので、(どれだけ意識しているかはさておき)それはすべての観光的行為の背後で体験される、「旅を旅にさせる」必要条件である。 つまり、時空を超える体験があってこそ、観光は観光になり、文字通り「光を観る」ことができるのである。
あらゆる体験の言語化などは所詮不可能な試みで、「月に矢を射る」のと同じくらい意味のないことなのかもしれない。 それは旅という体験に対しては、非常によくあてはまる。 自分の旅行記を書いてみて、なんだかしっくりこない、すっきりしない体験をされる人は多いであろう。
(新疆・シルクロードの朝)
これからこの駐在日記で、数回のシリーズに分けて、かたや散文調に、かたや感想文風に、旅の断片の、そのまた断片をつらつら書こうと思う。 それは、もちろん「体験の言語化」というものではなく、言語によって旅を再体験したいからである。
こんなまわりくどいことを馬鹿みたいに書いてしまうのは、僕の悪しきアカデミックの癖で、こんなときには詩人の才があれば、とよく思う。 僕には詩人の才は全くない。 風景描写、心象描写などは到底できぬ。 だが、幸か不幸か、我々はデジカメなるテクノロジーの力を借りることができるので、それにもやっかいになろう。 文字なんかに比べて、写真や映像は、非常にパワフルに人の心に訴えかけることのできる媒体である。
(聖地カイラス山)
そういえば、デジカメほど、時間や空間をあのコンパクトなサイズに圧縮できるものはない。 旅はデジカメ的要素を多分にもつ。 だから、デジカメと旅はお互い切っても切れない同棲関係になってきたのか。
Daisuke Murakami
10月28日
天気 快晴 (この駐在日記のタイトルにふさわしい、季節がやっと到来しました)
気温 1〜21度 (朝・晩は冷えます)
服装 ジャンパー、(薄手の)コート、長ズボンが一般的です。日焼け対策は必須。 空気も非常に乾燥しています。