チベットに日本人としてはじめて足を踏み入れた河口慧海。 その名を知っている日本人は、100人に6人ぐらいはいようか。 だが、木村肥佐生(きむら ひさお)の名を知っている日本人はどのくらいいるであろう。 ここに少しだけ紹介したい。 みなさんに知って欲しいから。
そもそも、戦前・戦中にチベットに関わった日本人が何人もいるにも関わらず、河口慧海だけが脚光を浴びているのはちとおかしい。 彼の著した『チベット旅行記』はあまりにも面白く(みなさん絶対に読むべき!)、またラサからチベット大蔵教を請来し(その真偽が論争の的になっているが)、日本におけるチベット学の誕生に多大な貢献をしたことは、我々にとって非常に幸運だったといってよい。 でも、河口慧海の他に、多くの偉大な日本人がチベット・日本の関係史に深く関わっていたことは忘れてはならない。 木村肥佐生もその一人である。
1940年始め、興亜義塾という軍国日本のコロニアル学校でモンゴル語を学び、その後、内蒙古の僧院で一年過ごし、本人たっての希望で、軍部の情報部員として新疆ウイグルを目指す。 連れは彼の親友のモンゴル人夫婦。 モンゴル僧に扮して、中国・イスラムの軍閥の監視を逃れ、蒋介石支援ルートの調査でスパイとして行動するのだった。 結局、新疆には行けず、チベットに向かうことになったが、ラサやインド・ベンガルのカリンポンに居を置き、(戦後)今度はイギリスの情報部員としてチベットに調査に赴く。
(青蔵鉄道の車窓からみた、ダムション)
本の記述からも分かるように、キムラは二十代の若さにも関わらず、その行動力および優れた洞察力で知られる。 機転が利くだけでなく、思慮深さも兼ね備え、また、モンゴル語とチベット語を母語のように操り、あのチベット現代史の決定的時間を、モンゴル・青海省の砂漠を、チベットの雪山を、駆け巡る。
あまりにも過度で過激な旅。 そして現地の人々との親交。 情報部員としての任務からくる緊張感やスリルなどが文章やその行間からはっきり伺えるが、一番の魅力は、彼がいかにモンゴルとチベットを愛していたか、どれほどの思いで彼が親交のあった人たちのために尽くそうとしたか、(国家や主義などの狭い利害を超えて)理と情のバランスに重きをおいた、彼独特の義侠心である。
我々はこのような偉大な先人がいて、非常に幸せである。 とっても日本的であると同時に、極端に日本人離れしたこのような偉人に、その生き様に、学ぶことは多い。
(左手が英語版の”Japanese Agent in Tibet”、右手は日本語版の『チベット潜行十年』。)
僕のイギリス人の友達で、世界的な現代チベット学者であるAは、キムラのことを “He is my hero” と語っていたのをよく覚えている。 日本語版の本は『チベット潜行十年』(中公文庫)で半世紀ほど前に世にでているが、できるなら十数年前に出版された英語版 “Japanese Agent in Tibet” (Hisao Kimura – as told to Scott Berry; Serindia Publications) を読んで欲しい。 英語版は、戦後という時代の制約から離れていること、そして本人ではなく第三者が語っていることから、キムラ・ヒサオが感じていた野心や葛藤、エゴと理想との間に挟まれて生き抜く生き様が赤裸々に表現されている。 (本当にこの英語版はよく書かれており、このまま脚本として映画化ができるのではないかとさえ思えてくる。)
2007年の暮れの今、キムラが地元軍閥たちに追いかけられ拘留されながらあんなに苦労をして時間をかけて辿った道は、一本の鉄道が敷かれている。 青蔵鉄道がそれである。 青蔵鉄道に乗りながら野生動物を楽しむのもいいが、昔の偉大な先人たちのことに思いを馳せながら乗ってみたいものだ。
Daisuke Murakami
* 半年ほど前の僕の駐在日記で紹介した、人気のお土産物屋Dropenling。 風のお客さんに大好評! しかしながら、この店は今月いっぱいで休業に入ります。 再び開店するのはチベット正月明けの3月上旬からとなるようです。
12月9日
(ラサの)天気 快晴
(ラサの)気温 −8〜8度
(ラサでの)服装 ジャンパー、コート、長ズボンが一般的です。日焼け対策は必須。 空気も非常に乾燥しています。