「ニョンパ(バ)」の深遠な秘密。
よくチベット人の間で、「あいつはニョンパだ」という言い方をするが、
それは、あいつは頭がおかしい、バカだ、狂っている、といったような意味である。
あんな厳かなところで、人目を憚らず大騒ぎをするなんて、奴はニョンパだ、
というように。
この言葉には普通、ネガティヴなニュアンスがまとわりつく。
チベット語を解する我々外国人の仲間内でも、この語はよく使われる。
しかし、やや違ったニュアンスである。
(カイラス・コルラの現場。この場だけでも十分シュールなのに・・。)
去年、西チベットの聖山カイラスのツアーに同行していたときのこと。
52kmにも及ぶコルラの途中、お客さんたちと一休みしていた。
すると遠方から、ロングスカートをはいた外人女性がショッキング・ピンクの日傘をさして、
優雅に歩いてくるではないか。
想像してほしい。
海抜五千メートル前後の、それも聖域中の聖域中で、である。
なんともシュールレアルすぎる、ピンク傘のスカート女と大聖地の組み合わせ。
僕は内心、「あの西洋人、アホちゃうか」と思ったが、近づいてくると、
なんと僕がチベット大学に留学していた時のフランス人クラスメートだった! 笑。
僕は思わず、「おい、フレンチ・ニョンパ、そんなコロニアル傘を片手に、
こんなところで何してんねん?」と、皮肉混じりに声をかける。
が、相手も負けず、「ジャパニーズ・ニョンパ! あんたこそ、こんなところで何してるの?
ニョンパにニョンパ呼ばわりされるなんて、私も終わったわね」
このニョンパの語法は、
「狂っている」の意味のほか、ちょっとした親近感を表わすものとなっており、
関西弁で言うところの「アホ」と、その伝えるところの雰囲気が似ているかもしれない。
アホはアホでも、「オレはお前のアホさ加減をよく知っているぞ」という、
親密の情が出ているのである。
二人称で使われるところの、このニョンパの意味は、
実は、我々外国人の間だけのものではなく、
古くは、チベットのある種の聖人たちを指してこう呼んでいたのであった。
(ラサのチャンバラカンの中にある、ニョンパ僧ドゥクパ・キュンレーの瞑想窟)
とんでもない神通力と智恵を授かっている、在家の行者のこと、
それも常人では計り知れぬ狂気の言動で満ちている聖者のことを、
敬意を込めてニョンパ(もしくは、ドゥプ・ニョン)という。
(ドゥプは「成就」の意)
こういった聖なる狂気、ニョンパの特徴としては、
– 戒律や形式主義、社会の規範や常識に対する、徹底的なまでの嫌悪感
– 異様な見栄え、もしくは、汚くみすぼらしい外見
– 猥褻語を多用し、自らも猥褻な行為を人前で行なう
– 詩や歌、酒や女に溺れている
などなどの特徴がある。
日本の歴史の中で、我々にも親しみのある存在としては、一休宗純であろう。
奇抜、風狂、人間臭さ、などを、そのままで謳歌する生き方。
仏教の権威や形骸化に対して、身をもって批判する、その方便。
カッコよすぎ、である。
チベットのニョンパの場合は、神通力や千里眼などが、上の特徴に加わるか。
この「ニョンパ的なるもの」に対する我々の憧れは、
人として生きている限り、どうしても抑えきれないものがある。
チベット人も同様で、このニョンパたちに対しては、相当の敬意と尊敬を込めて
接してきた。そして我々も、このニョンパ文化を保護してきたチベットという
精神の場に惹かれてしまうのである。
でも、この“divine madness”(聖なる狂気)とでも呼べる精神モード。
相当、危険である。
憧れの気持ちだけで近づくと、足元を掬われるだけでなく、
精神・こころまで掬われてしまうことになる。
これは15年前のあの事件を振り返れば、一目瞭然であろう。
ニョンパに対する、我々俗人の「目利き」が必要不可欠になってくる。
それは、多くの「本物のニョンパ」に触れること以外には育たないであろう。
* * *
ということで、
この「ニョンパ」は、単なる狂気、だけではなく、
アブナイ狂気、そして、ある種の悟りへ導くこともある狂気、を指す。
そして、その精神性に対する我々の憧憬が、
「ニョンパ」という語にポジティヴなニュアンスを添えている。
「逸脱している」、「常軌を逸している」ということを、最大限に評価した言葉、「ニョンパ」。
自らニョンパになるのは大変だし、それは決して目指すべきものでもなかろう。
しかしながら、ニョンパ心やニョンパに対する目利きは、
常に磨いておきたいものである。
Daisuke Murakami
9月16日
(ラサの)天気 曇りときどき雨
(ラサの)気温 13~21度 (少し涼しくなってきました)
(ラサでの)服装 昼間はシャツ、フリースなど。 夜はフリース、ジャンパーなど。
日焼け対策は必須。 空気は乾燥しています。 雨具は忘れないように。