前略 ―(*)。
イタリアに一人旅に行ってきた。
初めてのイタリア、である。
ということで行き先はもちろん、ローマ、そしてフィレンツェ!
コロッセオ
なぜイタリアか―。
大学で「ヨーロッパ文化」について講義をする必要がでてきていることが直接のきっかけだが、ずっと前から、ただなんとなく、イタリアには惹かれていた。
あそこには行かなアカンな、と。
ヨーロッパ文化について語るにはキリスト教が必須であり、キリスト教について語るにはイタリアは最重要ということもあったが、ずっと同じ場所(東京)に住んで労働していると自分のモノの見方が単眼になってくるので、少し気分を変えてみたかった。それも、チベット・ヒマラヤ文化圏とは違う場所で。(ラサと日本の往復も、十年も続けば、思考がだんだん硬直化してきたりするものだ)
聖イグナチオ・デ・ロヨラ教会。なかに入ると、天への欲望が強く感じられる。
さて、ローマである。
ローマでは、まるで旅程のスケジュールに組まれたかのように、女性は美しいわ、スリが財布めがけて襲ってくるわ(計2回)、スタンドピザ屋のレベルが高いわで、とてもスリリングな時間が待っていた。が、そのなかでもとりわけ印象深かったのが、イタリアの都市空間における広場(Piazza)という場所の存在である。
<広場>は様々な人々が交わる、ヨーロッパ伝統の公共空間である。物乞いやスリから商売人や演説人まで、聖俗様々なパフォーマンスが繰り広げられ、人々はそれらを見たり聞いたり、勝手に評してみたり、そして時には、自分自身が広場の舞台に上げられ、見られたりするのである。おそらく、このような広場空間は、東京の都市空間にはほとんどないのではないか(近いものは、昔おそらく川辺や街道沿いなどにあったのかもしれないが)。そして、ロンドンでもないような気がする。あそこには広場はあることはあるが、イタリアの広場ほどの生命力を宿してはないだろう。
サン・ピエトロ広場にて。訪れた日にちょうどこの広場で、法王のスピーチ&ブレッシングが催されており、信者たちは大熱狂であった。
***
ローマ初日の昼下がり。
「ドン!!!!」
大きな爆発音が聞こえた。煙が向こうの街路から見える。
「テロか!?」
この時勢である。
ある観光地に向かって歩いていたところ、太い巨大音とともに、ガラスが割れる音が聞こえたのだった。
だが、その場にいた大勢の人々はがやがやとしながらも冷静である。
地元の人々はどういうわけか、なにかしら慣れているようで、その巨大な音の方向からも人がぞろぞろ歩いてくるし、その音の方向に向かっていく人もたくさんいた。若者・中年の男ばかりであったが。
そのまま僕は好奇心に駆られて、人の流れとともに、巨大音のした方向に歩いていく・・。
そこでは・・
No Bolkestein! (**)
なんでもEUの経済政策に反対する人々の集会が広場で繰り広げられていた。
そこは図らずも、イタリア政府の議事堂(下院)の前だったのである。
時差ボケながら、すごい光景だ。
(「ヴァふぁんくーろ!」(イタリアのFワード)の大合唱)
すると、また巨大な爆発音が鳴る。
殺傷能力はなさそうだが、相当な風圧が生まれるので、街路に面した窓のガラスが一部割れて、上から破片が降ってくる。めっちゃ危ない、危険や。
デモの暴動に巻き込まれるかもという不安感は全くなかったが(人々は「理性的に騒いでいる」ような印象を受けた)、狭い路地のなか、上方から自然の法則で降ってくるガラスでは、さすがに怪我をしてしまう。
もっと長い間、その政治広場にいたい気持ちもあった。
だが、今回の旅の目的は純粋に、観光地巡り=キリスト教聖地巡礼である。僕は後ろ髪をひかれつつ、そこから数分歩いた先にある、観光客で賑わう別の広場へと出た・・。
ローマ・パンテオンの中で
その夜。
パンテオン(万神殿)という約二千年前に建造された古代ローマの巨大建築物にすっかり魅せられてしまった僕は、その前に広がっている広場のオープンカフェで夕食をとることにした。
美しい。実に美しい。べニッシモなこの建造物。「天使の設計」などと言われるらしいが、実にうまく表現したものだ・・ などと悦に入りながら、ワインを注文する。
周囲では歌う者あり、演奏する者ありで、旅情を誘う。
広場のなかに聳え立つギリシア=ローマのこの神殿が、まるで劇場の中のワンシーンかなにかのように浮き上がっている。
パンテオン(万神殿)
しかし、、・・。
上の写真をじっと見つめてほしい。
願わくば、美しい女性と一緒にワインを飲みたかった・・。一人で寂しくローマに来てしまったことを少なからず悔やむ瞬間、である。>_<
そして、パンテオンからの帰り道。
狭い路地を歩いていると、再び広場に出た。
まるで花がぱっと咲いたような、非常に美しい広場だったので、
思わず動画を撮ったのだが、そのとき偶然にもある現場をとらえてしまった。
(スライドする画面中央に出てくるカップルに注目。“Will you marry me?”)
なぜ、なぜ、こうもかくも、広場ではドラマが生まれているのであろう。
初めてのイタリア、それも初日である。
広場という広場で、なにかが起きている。行く先々の広場で。
それも筋書きなしで、入れ代わり立ち代わり役者が現われ、各々の人生の大切な瞬間が立ち現れているのだ。
上の映像を撮っていた瞬間、偶然居合わせた誰もが感じたはずである。
幸福感を―。
ほんとうに、幸福のエッセンスが噴水の音とともに美しい広場全体に広がっていくようであった。アモーレ(愛)は絶大である。
スマホでこうして見ても幸せな気持ちになってくる。
まるで観客と役者とが、一緒になってあたたかい優しい空間を作り上げているかのようなのである。そのような作用が生まれるのは、やはり広場というある種「囲まれ、包まれているという空間性」が少なからず影響しているような気がする。
あとで観光ガイドブックを覗いてみると、ここは有名な広場であった。
「トレヴィの泉」という。
* * *
ヨーロッパの広場は公共空間である、などという言われ方をするが、それだけでとまってしまうとなにかもったいないような気がする。
なにかを胚胎させる力が、広場という空間にはあるのだ。
そういえば、コロッセオも古代ギリシア=ローマの劇場も、広い意味で「広場」なのかもしれない。ある種<囲まれた中>で人々は酔いしれるのだ。
広場という世界。それは、
何かによって空間が囲まれている場、そして
人が大勢集まっているのに、人のしがらみから一瞬離れる場。
そういうのは、そこかしらにあろう。
イタリアだけではなく、おそらくラサ、そして東京にも。
そして、そこは哲学的な思考の入り口のような気がする。
また、愛の入り口でも、ありうる。
キーワードは交叉点。
フィレンツェの路地にて
(*)本ブログの歴史と存在理由については、近いうちに少しずつ書いていきます。
(**)Bolkestein Directive[ボルケステイン規制]とは、EU内で展開する企業が、その出身国の法律でもって他国に自社のサービスを展開する法。「新自由主義的」(≒富者を利する)であるとして、この十年以上、ヨーロッパ中で反対運動が起きているようである。ただ、上記のデモが、それと直接関係したものかは未確認である。そこかしこにあったプラカードはボルケステインを批判するものであったが。