ネパールの宝であり世界に誇るヒマラヤと、その麓で暮らす人々の生活や文化に触れることができるトレッキングについて紹介します。
鎖国から開国 ネパール・ヒマラヤ登山の幕開け
アンナプルナⅠの南壁
18世紀後半、ネパール(グルカ)軍がチベットへ侵攻し、チベット第2の都市シガツェまで占領する「第一次グルカ=チベット戦争」が発生。チベットは清国の援軍を受けこれを撃退しますが、その後の清国のチベットに対する干渉と、ネパールの背後にある東インド会社に懐疑を持ったチベットは、1792年から鎖国政策をとります。
ネパールもまた19世紀初頭のイギリスとのグルカ戦争を経て、1816年から134年間に及ぶ鎖国に入り、両国は「ヒマラヤの禁断の国」となりました。
インド測量局によってヒマラヤの高峰の測定が進み、日本の求法僧・河口慧海がネパールからチベットへ潜入したのも、この鎖国時のこと。その間、ヒマラヤ登山の舞台はパキスタン領のヒンドゥークシュやカラコルムに集中しましたが、第一次世界大戦と第二次世界大戦によって世界情勢は悪化し、冒険家や登山家も軍靴に履きかえねばならず、ヒマラヤ登山は低迷してしまいます。
第二次世界大戦が終わりインドからイギリスが撤退すると、1947年にインドとパキスタンが独立。その影響もあってか、1950年、ついにネパールの鎖国が解かれました。
世界の8,000m峰14座のうち8座があるネパールに各国の登山隊が訪れるようになり、まずはフランス隊によってアンナプルナⅠ(8,091m)が最初に登頂されました。人類初の8,000m峰登頂に世界は沸き、各国は鎬を削るようになります。これがネパール・ヒマラヤ登山の幕開けです。
登山スタイルの変化とネパール・トレッキングの開花
ヒマラヤの麓で「のんびり旅をする」
1953年には、イギリス隊のE・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが遂に世界最高峰エベレスト(8,848m)を初登頂し、1956 年、視察から4年をかけて挑んだ日本山岳会隊がマナスル(8,163m)の初登頂を果たします。そして1960年にはスイス隊によってダウラギリⅠ(8,167m)が登頂され、開国から10年間でネパールの8座の初登頂が成されました。
その後、より困難なバリエーションルートからの登頂や、アルパインスタイル[*1]での登山、ヒマラヤ縦走登山、冬季登山などスタイルを変え、ヒマラヤ登山史が刻まれて行くことになります。なかには、イタリアのR・メスナーのようにエベレストやパキスタンのナンガ・パルバット(8,126m)を無酸素・単独・アルパインスタイルで登り、8,000m峰14座全登頂を果たす超人も現れます。
一方で、1965年頃からトレッキングといういわば新しいレジャーが始まりました。
1965年から4年間、ネパール政府は登山禁止令を出します。背景には第二次インド=パキスタン戦争や1959年のダライ・ラマのインド亡命と中印の国境紛争がありました。ヒマラヤ登山によってもたらされる高額な登山料が一時ストップしてしまうネパール政府は、外貨獲得のための観光客誘致策としてトレッキングを大々的に宣伝することとなります。
[*1] アルパインスタイルとは、「アルプスを登るように」固定ロープも荷揚げも行わず、自力で登るシンプルな登山で、従来の極地法(ベースキャンプから、上部キャンプをいくつも設置し、荷揚げを繰り返す。組織的立ったチームを編成し、最終的に少数のアタック隊を登頂させる大規模登山)とは対極的なスタイル。
ネパール・トレッキングの魅力 ヒマラヤを眺め歩く
大迫力のヒマラヤを間近に(マナスルエリア)
トレッキングの語源はオランダ語の「Trek」で、「難儀しながら徒歩や牛車でのんびり旅をする」ということ。登頂を目的とする登山ではなく、美しい自然の中を自らの足でゆっくり歩く旅のスタイルを指します。
今では、トレッキングという言葉もすっかり定着し、ヨーロッパ・アルプスや北米・ロッキー、南米・アンデスやパタゴニア、ニュージーランド・サザンアルプスなど世界中の山麓でトレッキングが楽しまれています。いずれも絵葉書のような美しい景観が楽しめますが、ネパールのトレッキングには、それだけでなくネパールならではの魅力があります。
その1つは、なんといっても「世界の屋根」、あるいは南極、北極に次ぐ「第3の極地」と呼ばれるヒマラヤを間近に眺め歩くことでしょう。
ヒマラヤとはサンスクリット語で「雪の住処」という意味で、西はパキスタンのナンガ・パルバット(8,125m)、東はラサから約380km東にあるナムチャ・バルワ(7,782m)にまたがる2,500km前後の大山系です。その中心にあるのがこのネパール。エベレストをはじめ7,000m~8,000m峰が連なるスケールの大きさと神々しさは、見るものを魅了し憧れとともに畏怖の念を与えるほどです。
かつて、一握りの登山家や冒険家しか訪れることのできなかったこの地も、先人達によってもたらされた数々の情報と、国内航空路や車道の整備も少しずつ進みアプローチが楽になったことから、エリアは限られるものの誰でもヒマラヤの麓を訪ね歩くことができるようになっています。
ネパール・トレッキングの魅力 生活と文化を感じる
ターメリックを切って乾燥させる作業
もう1つの魅力は、トレッキングのために整備された道ではなく、ヒマラヤの麓に暮らす人々の生活道を歩くということ。トレッキングルートは彼等の村々をつないで進んでいくことが殆どで、人気のルートではだいたい1時間に1つの集落が現れ、主要ルートの村では数件のロッジを経営しています。
ヒマラヤ南側の山麓は亜熱帯から温帯に属し、5月下旬~9月下旬はインド洋からのモンスーン(季節風)によって恵みの雨が降り、農業にも適した地域です。そして、ネパールは「民族のるつぼ」といわれるほどの多民族国家ですが、このヒマラヤの南麓周辺、中間山岳地帯に暮らしているのがマガール、グルン、タマン、ライ、タカリなどのチベット・ビルマ語系民族で、ネパールの全人口の約45%を占めています。
彼等は畑作と稲作、家畜の飼育を生業としており、山の斜面の段々畑や棚田に、夏場はトウモロコシやヒエ、陸稲(リクトウ、またはオカボと読む)、豆類など、冬場は小麦やナタネ、カラシナなどを作ります。家畜はヤギや鶏、牛と水牛で、乳製品や食肉の確保に不可欠であると同時に、鍬を使う田畑の耕作と肥料のためにも家畜は欠かせるものではありません。
また、これら豊かな山村を越えてさらにヒマラヤへ向かうと、いよいよ高度も上がりダイナミックで荒涼とした景観に変わっていきます。地域差はあるものの、一般的にネパールの森林限界は3,500mから3,800mくらいで、その辺りから民族はシェルパなどチベット系山岳民族に変わります。
家屋は石積みの平屋根にチベット仏教の祈祷旗「タルチョ」がはためき、マニ車を回しながらすれ違うおじいさんに、試しに「タシデレ!」とチベット式の挨拶をすると、皺だらけの顔を一層濃くして笑顔をくれることでしょう。この辺になると、道は生活道というより、古くから隊商が行き来した交易路や、ヤクの放牧のためにつけられた道、あるいは巡礼者の往く道である場合が多くなります。
いずれにしても、普段人々が使っている道を歩くため、特別な技術も装備も必要なく、そこで暮らす人々の生活を身近に感じ、標高とともに変わりゆく文化を目の当たりにすることができます。
「世界の屋根」、「第3の極地」といわれると全く人を寄せ付けない響きがありますが、トレッキングで訪れるヒマラヤの麓には、緑も農作物も豊かな村や、森林限界を超えて農耕限界(約4,250m)ギリギリでたくましく生活している村が点在しています。
きれいに整備された遊歩道や便利なロープウェイ、登山列車があるわけではなく、物質的な豊かさはありませんが、太陽をいっぱいに浴びながら農作業に精を出す村人や、胸の前で手をあわせて「ナマステ」とはにかむ子供達の笑顔の奥に「雪の住処」が輝いているネパール。自ら歩き、素朴な山村風景に触れることこそがネパール・トレッキング最大の魅力なのではないでしょうか。