伝統医学のそよ風 〜ラダック・ティンモスガン村より〜

文●小川 康

毎年8月に開催されるメンツィカンの薬草実習
毎年8月に開催されるメンツィカンの薬草実習


伝統医アムチ

「自ら山に入って薬草を採取し、製薬し、心を込めて患者に処方できる薬剤師になりたい」。そう思って1999年1月、チベット医学を学ぶべくインド・ダラムサラに渡った。3年に及ぶ受験勉強を経てメンツィカン(チベット医学暦法大学)に合格。入学後は、険しいヒマラヤ山中で薬草を採取し、8世紀に編纂された医学教典『四部医典』(*1)を暗誦し、僧院のごとき寮で厳しい生活を6年間に渡って送り続けた。遺伝子治療など最先端の医学が進歩する一方で、何千年と変わらない営みを続ける医学が同時に地球上に存在していることの神秘。60億分のチベット医2000人(*2)が、「もっともっと」と際限なき完璧さを求めて背伸びする現代医療社会を支えているのではないだろうか。僕はそんな眼に見えないバランスを信じている。

ラダックの位置

チベット医学文化圏には、チベット本土、モンゴル、ブータン、ロシアのブリヤート共和国、北インドのラダック、ネパールのヒマラヤ地帯などが含まれ、現在はインド社会にも広がりを見せている。チベット伝統医は民衆からアムチと呼ばれ尊敬され、その中心的存在であるメンツィカンはインド北部、チベット亡命政府があるダラムサラにある。僕は2009年に病院研修を終えて正式なアムチとして認められ、現在は、チベット医学文化圏でのスタディツアーや、国内における薬草ワークショップを通して、薬の教育=薬育に取り組んでいる。そして2013年の夏は、五色旗タルチョが群青の空に映える天空の地・ラダックへ降り立った(*3)。
僕がラダックを訪れるのは12年ぶりとなる。前回の訪問はメンツィカン入学前のこと。大学の先輩タシが伝統医の子息(*4)であることを知り、レーから車で4時間、ティンモスガン村のタシの家で10日間ホームステイしたのである。そして、今回もタシ自ら村を案内してくれることになった。


*1:四部医典は根本部(概略)、論説部(生理学、薬草学)、秘訣部(診断学)、結尾部(処方、治療集)、の四部門から成り立っている。医聖ユトク(AC 708~833年)によって編纂された。
*2:チベット文化圏全体でアムチ2000人という数は筆者による大まかな推測である。
*3:2013年8月のツアー「アムチ(チベット伝統医)小川さん同行! 暮らしに息づくラダック伝統医学 9日間」
*4:アムチは、メンツィカン大学で中央集権的に教育されるアムチと、一子相伝のごとく村々で世襲的に教育されるアムチの2つに大きく分けられる。タシのように世襲でありながらメンツィカンで学ぶケースは稀である。

ティンモスガン村
ティンモスガン村


ティンモスガン村の位置


荒々しいまでの勇気

ティンモスガンは直訳すると「底と上」。谷と山からなる起伏に富んだ地形に由来するという。その谷に生える薬草・ヒヨスを手にしながら、タシは先祖代々伝わる秘術を僕たちに教えてくれた。ヒヨスはナス科に属し朝鮮アサガオの仲間といったほうがピンとくるだろうか。芥子粒のような黒い種にはヒヨスチアミンという有毒かつ有用な成分が含まれており、江戸時代には華岡青洲が朝鮮アサガオを含む麻酔薬を開発して世界初の全身麻酔手術に成功している。現代医学では鎮痛、鎮痙を目的に用いられ、サリンの解毒薬として活躍した経緯がある。
秘術は歯が痛い患者に施される。まず、山に生えるウスユキソウを綿状にほぐす。その上にヒヨスの種を数粒のせて火をつける。その煙をパイプを通して歯痛の場所に当てることで鎮痛作用を期待するのだという。なるほど内服ではなく煙香という形なら副作用も少ないだろうと僕は感心した。なにしろ華岡青洲の妻は麻酔薬の実験台を買って出たために副作用で失明し、母は死亡している。伝統医療の薬には「副作用がなくて穏やか」というイメージがあるかもしれないが大きな誤解である。むしろ附子(トリカブト根を解毒したもの)やヒヨスといった劇薬を使いこなす荒々しいまでの勇気がアムチには求められる。さらにウスユキソウのなかに、あらかじめ小さな虫の死骸を忍び込ませておいて、治療後に「ほら、歯の虫が出てきて死にましたよ。これで治りました」と患者を納得させることもあったと教えてくれた。限られた環境のなかでこうした応用力も必要となってくる(*5)。
とはいえ今ではティンモスガンの村人たちも現代の鎮痛薬を用いる時代になっている。おそらく、上記の施術は稀にしか行われないだろう。そうだとしてもいい。日本では華岡青洲は歴史上の人物になり、彼の気配は完全に失われてしまった。一方、ラダックでは古代の英知の香りが村に漂い、いまの世代、タシにかろうじて受け継がれている。「荒々しいまでの勇気」が、いまもまだ、息づいている。医療の原点がそこにある。だから、僕は日本の人たちに、この残り香をラダックで感じ取ってほしいと願うのだ。

*5:アムチはラダックで有名なシャーマン(呪術医)とよく混同されるが、基本的に異なる存在である。

ヒヨス
ウスユキソウ
上:ヒヨス 下:ウスユキソウ
アルガリの角を持ったタシ
アルガリの角を持ったタシ



受け継がれる薬袋

翌日、タシ家の屋上にある診察室を見せてもらうことになったが、タシは気乗りしていない。それもそのはず。アムチである高齢の父親の足腰を考えて6年前に1階に新築され、それ以来、旧診察室は滅多に開けられることはなかったという。「ほこりっぽいだろうな」と不安げなタシの背中を押しつつ、僕たちの好奇心が扉を開けさせた。「おおー」とみんなの歓声があがる。伝統医学のタイムカプセルが開かれるような興奮に包まれた。まっさきに目に飛び込んでくる古びた薬草瓶。乾燥したラダックの気候はよほど保存に向いているのだろう、なかの薬草はまったく劣化していない。そのほか治療器具や古い経典など、日本なら重要文化財に指定されそうな逸品ばかりが並び、ツアー参加者から何度もため息がもれる。そんな診察室の片隅に見覚えのある大きな薬袋がぶら下がっているのに気が付いた。
あれは12年前のこと。夜遅くにお父さんが村の会合から帰ってきて腰ひもを外したとき、上着の中から腰巾着のようなものが落ちてきた。息子のタシがすかさず拾い上げて僕に見せてくれた。
「我が家に代々受け継がれている薬袋だよ。父はどこへ行くときにもこの薬袋を手放すことはないんだ」。そういって渡された薬袋はずっしりと重い。なかの小袋の数は15ほどだろうか。つまり15種類のチベット薬は最低限、持ち歩き、いつなんどき患者から求められても応えられるように準備している。これがアムチの心構えか、と当時アムチの卵である僕は感心させられたものだった。でも、あのときの薬袋が旧診察室に眠っているということは、もう、遠くへ出かけないほど老いたことを意味しているのかもしれない。
タシがメンツィカンに入学した時、両親はもちろん、村の人たちは大喜びしたという。村のアムチの灯を消してはいけない。そして、現代医療の波が押し寄せるなかで、タシがこの薬袋をどうやって次世代に引き継いでいくのか。僕はアムチの一員として、タシの親友として、ともに考えていきたい。

伝統医学のタイムカプセル、タシ家の旧診察室
伝統医学のタイムカプセル、タシ家の旧診察室

受け継がれる薬袋
受け継がれる薬袋


尼僧の信仰心

次に旧診察室の向かい側にある薬師堂に足を踏み入れ、腰を下ろすと、「タシ、盲目の尼僧はどうしている?」と、内心で一番、気にかかっていたことを切り出した。
12年前の夕食時、家族に交じっていつも盲目の尼僧がいた。60歳くらいだろうか。尼僧は親戚にあたり、タシが生まれたときからいっしょに暮しているという。食事の時にはけっして座布団を敷かず土間の上に座るのを習慣としている。そして食後、「いつもありがとうございます」と感謝の気持ちを述べるのを忘れることはない。そんな謙虚な尼僧と、その謙虚さを誇り高く語るタシとは、やはりというべきか、一番の仲良しだという。
ある日、家の中に石を打つ音がかすかに響いていることに気がついた。コツン、そしてまたコツン、と間隔をあけて屋上から響いてくる。そっと階段を上がると薬師堂の前で尼僧が背中を丸めて杏の種を割り続けていた。一つ、また一つ。丁寧に種は割られていく。何十年間もこうして杏種をひたすら割り続けているのだという。取り出された杏仁は後日、搾られて杏油に生まれ変わり灯明として薬師如来に捧げられる。種割り以外のときは、手持ちマニ車を回しながら、薬師如来の御前でただひたすら真言を唱え続けるという尼僧。
僕はしばらく、尼僧の姿に心奪われて、背中を眺めつづけていた。そして、去り際にこっそりと写真を撮ろうとシャッターを切った、そのとき、尼僧が振り向いた。
「タシかえ、タシがそこにいるのかえ」
僕は何だか悪いことをしているような罪悪感に包まれて、そっと階段を下りていったのを12年後のいま、こうして思い出している。

薬師浄土へ生まれ変わった盲目の尼僧
薬師浄土へ生まれ変わった盲目の尼僧

「残念ながら尼僧は2年前に亡くなったよ」。僕が尼僧のことを気にかけているのが、タシにとってはよほど意外であり、そして、よほど嬉しいのが伝わってくる。彼は神妙な面持ちで続けた。
「彼女は亡くなる直前までいつもと同じように杏種を割り、マニ車を回しながら真言を唱えていた。そしてこの薬師堂で亡くなると僕たち家族は盛大な葬式を催して7日間、喪に服した。そうして7日目の夜のことだ。このお堂で僧侶たちが読経をしているとき、尼僧が大切にしていたマニ車が、コロッ、コロッと勝手に回りだしたんだ」。僕はしばし言葉を失ったあと、ツアー参加者に一語一語、正確に通訳した。薬師堂には沈黙が漂った。
「尼僧の魂がそこにいる。みんながそう確信したよ」。タシは尼僧のマニ車が回った場所に座り、興奮を抑えながら話してくれた。そして真剣に耳を傾けてくれる日本人グループがいることで、また尼僧の存在がよみがえっている。尼僧はきっと薬師浄土へ生まれ変わったのではないだろうか。ふと、そんな気がした。


薬草動体視力

エフェドリンを含有する麻黄
エフェドリンを含有する麻黄

最終日、風のツアー一行を乗せた車はティンモスガンを出発するとレ―へ向けて疾走した。荒涼とした岩山が広がる大パノラマ。そのとき僕の視界に濃い緑色の植物が一瞬、眼に入った。「あっ、麻黄だ。ストップ!」と叫ぶと、車を急停止させて下車した。確かに麻黄だ。風邪薬の有効成分エフェドリンを含有する貴重な薬草で、多くの西洋薬、漢方薬に配合されている。同乗していた医師Aさんが「小川さん、このスピードでよく気が付きますね」と感心してくれた。それもそのはず、何を隠そう、アムチは薬草を発見する能力に極めて優れているのである。メンツィカン恒例、1カ月に渡るヒマラヤ薬草実習では、課題の薬草がどこに生えているかは教えてくれず直感だけが頼りになる。1日中、間違った薬草を採取し続けていた哀れな学生もいれば、手ぶらで帰ってくる学生もいる。そんな中で僕たちは薬草を見つけ出す力を養っていく。トラックでの移動中すら薬草への監視を怠ることはないので動体視力も鍛えられる。
「では、Aさんも発見してみてください」と促すと、身を乗り出すように沿道を凝視しはじめた。スピードは80キロ近く出ているだろうか。「いま、一株、見逃しましたね」と教えると、「しまった!」と悔しがるAさん。医師の名に掛けて、鬼気迫るほどの集中力が伝わってくる。しばらくして「あっ!」とAさんがはじけるような笑顔とともに声を上げた。「Aさん、やりましたね。発見です」。ついに自力で一株目を発見! すると不思議なもので、次々と眼に入ってくるようになり「わ、わ、わ、凄いですね。この道を麻黄ロードと名付けましょうよ」とすっかり麻黄動体視力を獲得したようだ。

ティンモスガン村で薬草探し
ティンモスガン村で薬草探し

ほんとに不思議なもので、ある閾値を超えると、突然、その薬草と一体化し、薬草から「おい、ここにいるよ」と呼びかけられるような感覚になる。その域に達するには従来の薬草観察会や机上の学びだけでは不十分。ひたすら薬草を採取し続けたり、口にしたり、高速移動のなかで薬草に集中するという修練によって得られる能力なのである。情報収集力、解析能力に重きを置く日本の医療教育とは対照的だ。だからこそ、僕同行の海外ツアーや国内での薬草講座では、薬草の探索、採取、洗浄、乾燥、刻み、焙煎、配合、服用、という一連の作業をとおして、いまの日本の医療教育に欠けている「生きる知恵」「考える力」を補えるのではと思っている。
Aさんが発見した麻黄を手にしながら「これと杏があれば、麻杏湯(*6)がラダックで作れますね」と僕が提案すると、Aさんは「ほんまや!」と大きな関西弁で感動してくれた。ゼロから薬を作れる喜びと自信。東洋、西洋を問わずして、医療の第一歩は薬草を見つけること、いや、「薬草を絶対に見つけたるわ!(関西弁)」と気合いをいれることからすべてははじまるのだ。
レーを望むフォベラ峠にさしかかったとき、現地ガイドのスタンジンが車を止めてタルチョを掲げた。黄・青・赤・緑・白の五色は順に、地・水・火・風・空の五元素に対応しており、大自然と身体はこの五元素によって成り立ち、繋がるとされる。これがチベット医学の根本理論である。こうしてタルチョが風でなびくたびに、大地と人々の五元素のバランスが整い、災いや病が遠ざかっていく。勇気、伝統、信仰が受け継がれていく。
現代医学が社会を形成する土ならば、伝統医学は土の上を吹き抜ける風になればいい。社会を紡ぎ、信頼を育むそよ風になればいい。古代の香りを運ぶ風になればいい。優れた医師、薬剤師を育てる風になればいい。なぜなら風と土、この2つがあってはじめて社会の風土が形成されるのだから。僕は多くの日本の人たちにこの風を感じてほしいと思っている。

*6:本当の処方は麻黄甘石湯。気管支を広げ、痰を出しやすくして呼吸を楽にする漢方薬。麻黄、杏仁、甘草、石膏からなる。

レーを望むフォベラ峠にタルチョを掲げる
レーを望むフォベラ峠にタルチョを掲げる


風通信」 48号(2013年11発行)より転載


小川さんが同行! 風カルチャークラブ講座情報

好評連載中

小川康の「ヒマラヤの宝探し」

ラダックツアー一覧はこちら!

関連よみもの

「風のラダック」特集