2015年8月15日から23日まで、チベットのアムド地方へ伝統医学スタディツアーに出かけた。ツアー初日、アムドの草原で、さっそくここは講師の出番とばかりに、ルクル(第12話)を手に取った。これはゴマノハグサ科の薬草で日本名はシオガマという……と華麗な蘊蓄を披露しようとした、そのとき、現地ガイドのノコさんが真っ先に「それは、アマニニですね」と反応したのである。そして小さな花を摘むと、慣れた手つきで花の蜜を吸った。
「小さい頃、甘いものがなかったから、こうして花の蜜を吸って遊んでいました。甘い蜜を“おかあさん(アマ)のお乳(ニニ)”にたとえて、こう呼んだのです」
ノコさんの甘い解説に誘われて参加者みんなで小さな花を摘んで吸ってみた。なるほど、ほのかに甘い。そういえば小さい頃、僕もこうして花と触れあっていたことを思い出した。すると、ノコさんは「これも、アマニニですね」と、少し大きめの花を摘んで、また口にした。これは日本ではオドリコソウ(シソ科)にあたる、と僕が解説したが、もはや誰も聞いていない。みんな蜜を吸うのに夢中で、まるで虫になっているではないか。かろうじてノコさんが僕をフォローしてくれた。「そうですか。日本にもアマニニがありますか」。
確かに日本にも同じ草はある。でも、近頃はだれも花の蜜を吸わないから、それはアマニニではなく、シオガマやオドリコソウと無粋な植物学名で呼ぶ方が正しいだろう。
日本では学名で植物を分類する。これは、もとをたどれば、1735年にヨーロッパで確立した分類法である。形態による分類法はグローバルな視点でみれば、学名一つで世界各国で共通認識を持つことができるので研究や産業には役立つ。いっぽう、ローカルな生活の視点でみれば、学名はあまり役に立たず、遊牧民のように人との関わりにおいて草木の名前が付けられるほうが「生きる」ために役立つ。それは、異国を旅するとき英語は便利だが、現地の言葉を知った方が、より深く交流ができることと似ているかもしれない。そもそも、植物の地方名は、かつて日本にもたくさんあった(注)。しかし、人と自然、人と草との関わりが薄れるにしたがって、必然的に地方名は消えていってしまった。
話をアムドの草原に戻そう。こうして草原の植物と遊んでいるうちにノコさんの表情がガイドから遊牧民に戻っていくのがわかった。顔が子どものようにワクワクしているではないか。次に「小さい頃はこの花でよく遊びましたよ」といって黄色い花を摘み、参加者に渡してくれた。そして「せーの」で引っ張り合いっこをした。「これはバーラチャルといいます。中国語で“犬の喧嘩”という意味です」。ちなみにこの花はチベット医学専門用語でイーモン、日本語ではテッセンの仲間にあたるが、そんな蘊蓄はどうでもいいようだ。それよりも、いま、ここで草を楽しむ方が先決だ。すると、突然、ピーと甲高い笛の音が草原に響き渡った。いい音だ。振り返るとノコさんがタンポポの茎を短く切って笛にしていた。翌日、寺院を巡礼したときは「これは小さい頃、よく食べましたよ」とお寺の庭に生える草の根を掘ってくれた。アイティカとノコさんが呼ぶその根はマスタードのような味がしてみんな「美味しいー」と歓声を上げた。こうして野草を用いる料理を最近は洒落た言葉でガストロノミーと呼ぶらしい。アムドの草原でノコさんは草の楽しみかたを9日間に渡って披露してくれた。ここでは全部を紹介できないけれど、それはアムドの草原でノコさんに会ったときのお楽しみに残しておきたい。
2016年のゴールデンウィークに開催するツアーではノコさんのふるさとを訪れて、遊牧民に伝わる植物の知恵を学び、摘んで、そして、味わいます。チベットのガストロノミーをみんなで満喫しましょう。
注
たとえば、ブタクサと呼ばれる草には数種類ある。「ブタ」には憎しみが込められており、抜いても抜いても生えてくる強い雑草や、花粉症やアレルギーを引き起こす植物全般につけられている。
参考 『薬用植物学』(昭和60年 廣川書店)
植物の名前は各地で生活の必要上、あるいは知識の整理のために自然発生的につけられた。これを地方名local name という。地方名はそこに生活する者にとっては馴染みやすく便利であるが、他の地方には通じない。まして国語が変われば植物名はまず通じない。そこで、1つの種には国際的に通用するただ1つの名前を付けようとする考えが生まれた。これが学名scientific name の始まりである。
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