2015年8月15日から23日まで、チベットのアムド地方へ伝統医学スタディツアーに出かけました。前回に続いてのツアー報告です。
「遊牧民の人たちに伝わる健康法はありますか」と日本語ガイドのノコさんに尋ねると、少し考えてから「そういえば、おばさんはよく、土(チベット語でサ)を食べていました」と教えてくれた。「えっ、土?」と驚く参加者をよそに、「釜戸の土や、ストーブで温まったベッドの下の土、お鍋の縁につく土の塊(かたまり)のようなものを食べていました。また、ウサギや豚小屋の土を顔に塗って薬にしていました。」と解説してくれた。
「なんと原始的な民族なのか」と読者から誤解を招きかねないが、実は日本人は他のどの民族よりも好んで土を服用しているというと驚くことだろう(注1)。なぜなら、病院で処方される多くの抗生物質は土に由来しており、土こそが新薬開発の可能性を秘めているからである(注2)。その意味では(日常的ではなく)薬としてたまに特定の土を食べたり、皮膚に塗ったりするのは極めて理にかなっているといえる。豚の体温で日常的に温められていることにより、特殊な土壌菌が繁殖している可能性が考えられる。抗生物質を分子レベルで単離精製しノーベル賞を受賞したのは確かに英国のフレミングだが、土やカビが持つ抗生物質的な作用は、すでに、チベット人をはじめとして多くの前近代化社会のなかで見出されていたのである。
文献を調べたところ釜戸の土は漢方薬で伏龍肝と呼ばれ胃薬に用いられていることがわかった。科学的な見地からは、釜戸の土は毎日のように熱せられ、そして冷却されることで土中のケイ酸(注3)が結晶化し、特殊な薬効を発揮することが解明されている。それにしても、古代の人たちはどうやってこの事実に気がついたのだろうか。最初に釜戸の土を食べた人はいったい誰なのだろうか。ちなみに八世紀に編纂された四部医典には、釜戸の土に関しての記述はないので、中国からチベットの遊牧民に伝わった知恵とも考えられる(注4)。
また、チベット人は五大元素(地水火風空)のひとつとして地=土(サ)を大切に崇めている。五色の旗タルチョでは黄色が土を表している。ただし、この土は自然界を構成する元素としての土であって、われわれが知覚するところの土ではない。四部医典には「土元素が無ければ体が形成されず、水元素が無ければ集積できない。火元素が無ければ熟さず、風元素が無ければ成長できない。空元素が無ければ成長していく扉が開かない。(釈義タントラ第2章)」と記されている。
そもそも、いつから「土は汚い」というイメージが定着したのだろうか。僕は小さい頃、よく泥だらけの手でおやつを食べていたものだった。その意味では、僕も土を無意識のうちに摂取していたことになる。だから、と因果関係を結論づけるのは短絡としても、小さいころ病気をしたことはまったくなかった。これは想像でしかないけれど、単一化学成分の抗生物質だけを摂取するよりも、土に含まれるさまざまな細菌やミネラルをいっしょに摂取したほうが耐性菌が生まれにくいのかもしれないという仮説が成り立つ。素足で田植えをすると土の作用で足がツルツルになるのはよく知られた話である。もちろん、現代では、土の中に重金属や農薬などが混ざっている可能性があるので手を洗ったほうがいいのは間違いない。ただ問題なのはそれらの有害物であって、土そのものではないことを認識すべきである。現代日本社会における、うがいや手洗いの奨励はちょっと過度ではないだろうか。もしも、身近に抗生物質やミネラル剤が手に入らなかったら、われわれは土を最大限に活用して生き延びねばならないだろう。そのときのために、土をわざわざ口にしなくても、身近な存在として土を認識しておきたいものである。
2016年の春に出発するツアーでは、手洗いはほどほどに……、実際に土を喰らって……、というのはさすがに冗談だが、遊牧民の知恵を学びつつ、医学の源流をできる限り遡ってみたいと思っている。
注1
たとえば薬の先進国であるドイツでは、よほどのことがない限り抗生物質は処方されない。抗生物質が処方されるのは重篤なケースのみである。
注2
ペニシリンは1928年に青カビから発見された。結核に効くストレプトマイシンは土壌中の放線菌から発見された。2015年ノーベル医学賞受賞者の大村先生はゴルフ場のそばの土の中から新薬を発見した。
注3
地殻中の成分比において、ケイ素は酸素に次いで含有量が多い。ケイ素はガラスや乾燥剤の主成分として用いられている。
注4
四部医典に釜戸の土の記述はないが、ケイ酸を含有する土(チベット名 シンドラ)に関する記述はある。そのほか、ネズミの巣の土、雨樋の下の土を薬として用いる記述がある。
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