信州の山深き里、野倉(のぐら)。ここに店舗を建てるために30本近い杉の木を伐採したのは晩秋の11月3日のこと(第193話)。丸木を柱にするために製材所に運び込むと、副産物のごとく大量の杉枝がピラミッドのように残された。さて、どうしたものかと思案に暮れるもなにも、燃やすより他に手段はないではないか。そして12月5日早朝、上田消防署に電話で報告を済ませると、意を決して杉枝に火をつけた。山火事が騒がれる昨今、周囲に燃え広がらないだろうかとドキドキする。予想通り、火柱と煙が激しく舞い上がった。遠く離れた上田市街地からも確認できそうなほどの煙の勢いだ。すぐさま汗が流れ出てくる。そうして1時間もすると火と煙が身近な存在だった小さい頃の思い出が甦って楽しくなってきた。
僕が中学生の1985年くらいまでだろうか、ゴミは裏の畑で自由に燃やすことができていた。小さい頃、母といっしょにゴミを燃やした思い出が鮮明に焼きついているのは、火が持つ不思議な魅力かもしれない。1993年のころ、僕は東京に出てくると世田谷の羽根木プレーパークで焚火をして小屋で寝泊まりしていた。都内での火遊びはまた格別に楽しい。当時は都内で唯一、自由に火遊びができる公園として有名だったのだが、このプレーパークですら現在は禁止され、都会から火の営みが完全に消え去った。オール電化が普及したことで子どもたちは普段、火に接しないという。ついこの前まで日常的だった営みが、時代の変化とともに失われてしまうのはよくあることだ。ただ、失われるだけならともかく、その行為が禁忌視されるのはちょっとやり切れない。
いっぽう、チベットを旅していると火の営みをあちらこちらで見かけることができる。チベットで火の燃料といえばヤクの糞だ。燃料に用いるヤクの糞拾いは子ども達の大切な仕事で、家の脇には糞が山のように積んであった。炎の色具合でヤクが食べた草の様子が推察できると語るほどに、遊牧民の彼らは火とともに生きている。また、あちらこちらからサン(薫香)の煙が立ち昇っているのを見かける。昔から煙とともに人々の営みはあった。煮炊きをする煙、メッセージを伝える煙、祈りの煙……。サンの煙と香りは、その下に、僕たち日本人が忘れかけているささやかだけれども、自然とともにある暮らしが、たしかにあることを教えてくれる。だけど、日本の都内で煙を見つけたらまず119番へ通報しなくてはならないのはなんとも悲しい。ちなみに「煙の下には火があるように、症状から病の本質を診断しなさい。(四部医典・釈義タントラ第24章)」とあるように、火と煙の存在はチベット医学を理解するうえで欠かせない。
そういえば野倉(のぐら)の人たちとの出会いは火と煙からだった。野倉は別所温泉からさらに山奥に分け入ったところに位置する30戸ほどからなる小さな集落だ。過疎が進む集落の問題を考えあうために住民が集まる「のぐらー会」が毎月一回開催され、外部からの参加者も受け入れている。2014年3月、別所温泉に移住したばかりのころ、「のぐらー会」に誘われると好奇心のままに出席した。元小学校だった古民家の一室には見事な囲炉裏が掘られている。その囲炉裏の火を囲み、一杯やりながら話は進んでいく。ときに煙でむせてしまうのは御愛嬌。そして、結果的に「のぐらー会」を通じて集落のみなさんと親交を深めることができたからこそ、2年後に土地の話が舞い込み店舗を建てる決断がついたのである。正直なところ、まさかこんな山奥に(すいません)店を建てることになるとは夢にも思っていなかった。
話を冒頭の杉枝に戻したい。「野倉が煙たいねー。こんなに杉の枝が燃やされるのは、ほんとに久しぶりだ」と地元の古老からたしなめられて「すいません」と謝った。そして、護摩行のごとく5日間、ひたすら燃やし続けて、ようやく片付いた。汗を随分とかいたおかげで少し痩せた気がする。「お疲れさま。これで、安心して洗濯物が干せるよ」という地元の人たちからの労いの言葉のなかに、ここ野倉の人たちが火と煙ともに生きてきたことを感じとることができた。そして、この火(チベット語でメ)と煙は「これからこの集落でお世話になります」と、図らずも店舗開店にむけて最初のメッセージになってしまったようだ。
小川さん情報
【イベント】
企画中
【講座】
【旅行】
ラダック・ツアー情報
聖山ゴンポ・ランジュンに大接近!
終了ツアー 【企画中】聖地ザンスカール探訪と断崖の僧院プクタル・ハイキング10日間