絵解き図に登場するサソリ
ツアー参加者にはまず「チベット人の前では蚊一匹でもパチン!と手を叩いて殺してはいけませんよ。無意味に虫を殺さないでください」と注意を促すが、長年の身体性(習慣)は抜けないようで、みなさんついつい手が出てしまう。無理もない。僕だってチベット人と10年も暮らしたことでようやくチベット人的な身体性が身についたのだから。
チベット社会で暮らしはじめて3年目のこと。メンツィカンの寮内に5センチほどのサソリ(チベット語でディクシン 注1)が現れて僕だけが大慌てした。意外なまでに冷静なチベット人同級生たちは決してサソリを殺そうとはせず、空き缶のなかに追い込んで捕獲し、森の中に放してあげていた。正直、僕は「いくらなんでも、殺していいんじゃない。サソリだよ、サソリ」と怖れていたが口には出せなかった。『四部医典』には「小さな虫などの命を、自分の命と同じように慈しみなさい。(釈義タントラ第13章)」とあるが、まさに彼らは身体感覚で実践しているといえる。ちなみに日本ではサソリ毒が過度に強調されがちだが、もし刺されても腫れあがるだけで死亡に至ることは稀である。
メンツィカンの授業中、教室に小鳥が乱入して窓際の小さな虫を食べようとした。そのとき先生の許可を得るも何も、隣の席のドゥカルちゃんが反射的に勢いよく立ちあがって小鳥を追い払ったのにはビックリした。何に驚いたって本能的ともいえるその身体性に対してである。また、ミミズが大発生した日のこと。多くのチベット人がアスファルトの上で死にかけているミミズを木の枝で一匹一匹拾い上げて救出しはじめたのである。車の渋滞が発生していたが誰も声を荒げない。その光景はまるで映画の一場面のようにさえ映ったものだった。
当初、そんなチベット人たちの「やさしい」光景をどこか斜に構えて眺めていたものだったが、あるとき具体的には6年目だったろうか、踏み下ろそうとした足の下に小さな虫がいるのに気が付き、慌てて止めたために転んだことがあった。同じく6年目に「小川さんが、蚊を叩かずに追い払っているのを見て、これがチベット仏教かと思いました」と日本の知人から指摘されてハッとした。無意識のうちに虫を殺さなくなっていた「やさしい」自分がいる。つまり意識よりも先に身体がチベット人化していたのである。
チベット仏教は意外に思われるかもしれないが、きわめて身体的な学問である。たとえばチベット人は毎朝お水を仏前に捧げる。七つのお椀に入った水を桶に捨て、白い布でお椀を拭いてから改めて水を並々と注ぐ。この水のことをチベット語ではユンチャブ、日本語では閼伽水(あかすい)と呼ぶ。元はといえば普通の水であり合理的に考えれば何の生産性も伴わない儀式であるが、この儀式を毎朝行うことでお布施の身体性が生まれる(注2)。つまり、困っている人がいたときに頭で考えるよりも先にさっと手を差し伸べてしまう身体性である。確かにお乞食さんに対してチベット人たちはとても優しい。
閼伽水
小さな虫を救ういっぽう(環境的な要因もあるとはいえ)チベット人は肉食系であるという大いなる矛盾を抱えている。また些細なことでは日本人よりも怒りっぽいし、いざこざも多い。つまり小さな虫に気を配りつつ豪快に肉をほおばり、貧しい人たちにお布施もするけれど喧嘩もよくする。それは日本人的な視点に従えば大いなる矛盾を抱えているといえる。しかし、そんな矛盾が矛盾ではなく“人肌の温もり”のように感じるようになったのは卒業間近の9年目のことだっただろうか。ようやく意識も身体に追いついてチベット人らしくなってきたようだ。
つい先日(2017年5月)、森のくすり塾の畑で杭を打ちこんでいるときのこと。杭の上に小さな虫がいるのに気が付き、振りおろそうとしたハンマーを慌てて止めた。無理に止めたために身体がガクっと崩れてしまった。そんなとき無意識なまでに自分の中に内在する“チベット”に気がつかされるのである。
注1
サソリはディクシン・ナクポ(黒)、蟹はディクシン・カルポ(白)と区別される。『四部医典』にはサソリに刺されたときの治療法が簡潔に記されている(秘訣タントラ第89章)。
注2
たとえば、右手に持ったお金を自分の左手にお布施をする。つまり渡す。次に左手に持ったお金を自分の右手にお布施をする。これを意識的に繰り返すだけでもお布施の身体性が鍛えられるとされる。
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