「四元素でつながっている」の絵解き図
八世紀に編纂されたチベット医学聖典『四部医典』は全般に渡って九音節からなる詩文(チベット語でニェンガ)で記され、それは約二万五千節にものぼる。アムチ(チベットの医師)は詩文をすべて暗誦できなくてはならない。つまりアムチは詩人だともいえる。今回は『四部医典』のなかから印象に強く残った詩文をいくつか紹介したい。
དཔེར་ན་བྱ་ནི་མཁའ་ལ་ལྡིང་གྱུར་ཀྱང་།
ペルナ ジャ ニ カア ラ ディン ギュル キャン
རང་གི་གྲིབ་མ་དེ་དང་མི་འབྲལ་ཞིང་།
ラン ギ ディブマ デ タン ミ テル シン
འགྲོ་ཀུན་བདེ་བར་གནས་ཤིང་སྦྱོད་ན་ཡང་།
ド クン デワル ネ シン チュ ナ ヤン
མ་རིག་ལྡན་པས་ནད་དང་འབྲལ་མི་སྲིད།
マリク デンペ ネ タン テル ミ スィ
たとえば鳥が空を舞おうとも
自分自身の影とは離れることができないように
たとえ幸せな生活を送っていたとしても
無明とともにある限り病と無縁であることはできない
(釈義タントラ第8章 病の原因の章)
この詩は病の根本原因を表現するとともに、文学的にも美しいことから四部医典の中でもっとも多く引用されている。チベット医学の学びには医学、薬学はもちろん、詩文、仏教、声明など多様な学問が包括されている。実際、メンツィカンでは詩の授業があり、定期試験では「医学に関する四行詩を作成しなさい」という出題がされ、さすがに外国人の僕は苦労したものだった。チベット語を話して読んで書けても、詩文となるとレベルが違う。その社会の空気を(頭だけではなく)身体的に理解していなければ詩を生みだすことはできない。逆に、詩を生みだせるほどにチベット文化に溶け込んでいなければアムチとして認められないといえる。
偉大なる御心には差別や偏見はもちろん存在しないが
それを受け取る側の感じ方によってそれぞれ異なってくる
たとえば空に一つの月が昇ったとき
水溜りにはそれぞれの月が写るように
おっしゃることは一つでもたくさんの見解が生まれる
(結尾タントラ第26章 総括の章)
「影からは離れれられない」の絵解き図
インド、中国、チベット、それぞれの地域において、それぞれの医学が生まれたが、それらの知恵の源泉は一つであることをこの詩文は表現している。他の医学との違いではなく「いっしょであること」を強調している点が、どこかチベット仏教的に感じられて僕は好きだ。ちなみにアムチたるものチベット医学とはと問われれば、個人的な考えを述べる前に、まずは四部医典の詩文をふまえることが基本となる。いったん詩的な概念に論拠することで自分の主張が適度に弱まり、結果的に他者との共感が得られやすいという利点を僕は感じている。
衆生の体は四元素から成り立っている
治療の対象である病も四元素の不均衡によって生じる
薬の本質も四元素に他ならない
したがって、身体、病、薬はすべてが繋がっている
(結尾タントラ第27章 持戒の章)
世界はすべて地・水・火・風の四元素から成り立ち、四元素のバランスが乱れると病が発症するとされる。四元素はチベット医学の根本理論として注目されるいっぽう、こうした抽象的、かつ詩的な表現は、数値化(これを医学では科学的と呼んでいる)を念頭におく現代医療には受け入れられにくい。しかし、どんなに科学的なアプローチをしたところで、診断や薬から不確定な要素を100%排除することはできない。患者は一人一人さまざまで、そもそも60兆個の細胞からなる身体は複雑きわまりないからだ。だからこそ詩が必要となると思う。病名や薬の効果効能が美しい詩とともに告げられたならば、きっと日本の医療現場には少し温もりが宿るだろう。詩的な要素は医療の不完全さに対する寛容を育くみ、医療は社会のなかで100%に成熟するような気がしている。
さて、前述の日本語訳はあくまで試訳の段階である。文字はまだ“ただの記号”でしかない。もしも『四部医典』の翻訳を正式に出版し後世に残すとするならば、チベット語原文と同じレベルで美しくリズミカルな詩文に仕上げなくてはならない。そのときはじめて文字記号は“聖なる教え”に昇華する。それには途方もない時間と労力を必要とするが千里の道も一歩から。森のくすり塾の建設作業がようやく一段落したいま、大工から詩人へと気持ちを切り替えて『四部医典』の翻訳作業を再開してみたい。将来、日本の医薬学部において『四部医典 日本語訳』が教科書として採用される可能性は薄いけれど、医薬学の教科書に詩文が導入されるようになったら素敵だなと空想している。
参考
『四部医典』の詩文だけでは誤解、曲解が生じる恐れがあるため別冊の解説書を必ず同時に学ばなくてはならない。メンツィカンでは17世紀に編纂された『藍瑠璃のマリッカ(チベット語の通称、ベルゴン)』を公式解説書としていた。こちらは散文である。
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