珍しく風邪をひいた。これは貴重な機会とばかりに薬房で取り扱っている風邪薬を試そうと思い立った。その薬とは「橋本七度煎(ひちどせん)」。愛知県の知多半島に伝わる名薬である。七度煎はその名のとおり七回も煎じて服用する。薬問屋さんから「きっと小川さん好みですよ」と勧められて取り扱っていたのだが、あいにく試す機会がなく、お客さんから先に「風邪にすごく効きましたよ」と教えられていた。そして11月10日いよいよ試すチャンスが訪れたのである。大きめのティーバックを大きめのマグカップに入れ熱湯に浸す。少し濃いめに振りだしたあと口にしてみる。これは……いい味だ。「風邪で弱った身体が求めている」とはこういうことだろうか。結局、七度どころか十回以上はお湯を継ぎ足して一日中飲み続けた。13種類の成分は風邪薬としては見慣れないラインナップで他の風邪薬、たとえば葛根湯とは大きく異なる。特に主成分である阿仙薬(アセンヤク)は珍しい。また、ダイウイキョウやチョウジなど胃腸を整える薬草が多いことも見逃せない。さらにはセンキュウによって身体を芯から温める作用がある。炎症を抑える甘草が配合されているおかげで苦味が緩和され、馴染みのあるシナモンは風味を整えてくれている。
誤解のないように補足をすると七度煎はすべての風邪に効果があるわけではないし、僕の風邪も劇的に治ったわけではない。いや、そもそも劇的に治ることを期待したわけではなく、望みどおり10日間かけてゆっくりと治ってくれた。これこそ七度煎の効果であろう。加えて薬草の姿と香りが伝わってくる昔ながらの「刻み」であることが大切なポイントである。最近の薬は漢方薬といえどもエキス粉末剤がほとんどで薬草の原型を留めていない。刻みならば身体に合うかどうか自分の味覚で確かめることができる。
チベットでは風邪をチャムバといい、チベット医学ではお決まりのようにタンという煎じ薬を処方する。中国語「湯(タン)」がその語源である。アル、パル、キュルラ(第16話)のほか、マヌ(キクイモの仲間)、レテ(第104話)、生姜、カンダカリ(ノイバラの幹)の七種類を配合した薬で、未熟の熱を熟させることで風邪の治りをよくするとされる。煎じ薬の長所は抽出成分なので(薬草そのままよりも)お腹に優しく身体に吸収されやすいことにある。そういえば七度煎はタンと味が似ている。
よし、七度煎を多くの人に勧めていこう。そう思い立って問屋さんに発注をかけたところ「つい先日、製造中止になりました」との回答に呆然としてしまった。昨年も鹿児島の知覧に伝わる和漢薬が製造中止になっていた。1961年以降、薬が保険で安く手に入るようになり、1976年のGMP基準制定によって小さな製薬会社には厳しい時代が訪れ(第184話)、さらに1980年以降はドラッグストアが乱立する現代社会のなかで、伝統的和漢薬(注)が存続していくことは難しい状況にある。現在、薬房で扱っている反魂丹、熊の胆、赤玉はら薬などもいつまで製造が続くのか保証はない。病院のお医者さんが「風邪ですね。では、七度煎を飲んでみますか」、もしくは「下痢ですか。熊の胆が効きますよ」と処方箋に記してくれたらいいのだが、現実的には難しいだろう。
繰り返すが劇的な効果があるから和漢薬を勧めるわけでは決してない。そもそも薬草には無数ともいえる成分が含まれており、さらに異なる薬草が13種類も配合されれば、それはもう、分子レベルで考えればカオスの世界である。だから単一の分子で構成される現代薬とは比べようもなく複雑であり、それを言葉や数値で表わすこと(これをエビデンスという)自体に無理がある。極論すれば言語化、数値化しにくい複雑さこそが和漢薬の魅力であるといえるし、それはチベット薬にも共通していえる。そして、その複雑性を感受するだけの複雑な仕組みが人体には具わっていると僕は思う。「いい感じがする」。そのセンサーを大切にしていきたい。
あいにく七度煎はもう入手不可能だけれど、忘年会、新年会の体調管理には陀羅尼助や熊の胆、下痢には赤玉はら薬、冬の冷えには実母散、養命酒など、大きなドラッグストアならばこれらの和漢薬を(たぶん店の片隅で)取り扱っているので、ぜひ試してみてほしい。
注
和漢薬とは、奈良時代以降、中国から伝わった処方をもとに日本で改良を加えられたオリジナルの薬。主に江戸時代に発展した。 関連話 第117話
補足
橋本七度煎の“振り出す”“煎じる”用法は多少めんどうではありますが、それが漢方薬・生薬製剤の本来の用法であり、薬草から有効成分をそのまま効率良く引きだし、生薬の持味を十分発揮させる最も良い方法です。 (橋本七度煎の添付文書より抜粋)
なお、製造中止の理由は正式に発表されていません。
推薦書
『日本の名薬』(山崎光夫 文春文庫 2004年)
『日本の伝承薬』(鈴木昶 薬事日報社 2005年)
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