鈍行列車に揺られながら1時間以上に渡って熟考していた。小学校の「ジュニア・サイエンス」の講師として招かれたのだが、下車駅が近づいても話す内容が浮かばない。お題目は「くすり」。おそらく一般的な薬には興味がないであろう小学校6年生を相手に90分(2コマ)、いったいなにを話せというのか。最近はすっかり講演慣れした感があった僕だが、久しぶりに焦りを感じていた。そうして熟考したまま小学校に着いてしまい、とりあえず校長室へ通された。「あのー、ちなみにこの授業枠で前回はどんな話しでしたか?」という僕の苦し紛れの質問に校長先生は「保健所の先生がきて、映像を使いながらタバコの害を教えてくれました」と答えてくれた。この瞬間Mr.アマノジャク(天の邪鬼)が僕の内部から起きあがった。「ちょっとすいません」と校長室を抜け出すと、近所のコンビニへダッシュしたのである。
66人の小学校6年生と保護者たちを前に取り出したるは買ったばかりのタバコ。「あのさ、タバコって、もともとは薬だって知っていた?」。タバコはナス科の植物で、コロンブスがアメリカ大陸から持ち帰った薬草だということを語りながら、社会科の先生から急きょ借りた世界地図を指差した。17、18世紀にはヨーロッパにおいてタバコを吸うと頭がよくなると信じられていたこと。有効成分のニコチンはドーパミンという脳内物質を放出して疲労回復に役立つこと。ナス科にはアルカロイドと呼ばれる有毒成分(裏を返せば薬効成分)を含んでいることが多いこと。そして、戦後、復員兵の就労のために山間地におけるタバコ栽培が奨励されていた歴史を紹介した。「タバコって悪くばっかりいわれているけれど、いままでこんなに仲良くしておきながらひどいよね」とタバコの肩を持ってみた。「この大人(講師)、ちょっとやばそうだ」という視線をひしひしと感じる。後ろの保護者のみなさんは「チベット医の健康にいい話」を期待していたらしいが、どうもすいません。
メンツィカン学生時代、暗誦の練習に疲れると、こっそりインド人のお店にいって濃いチャイを飲んでいたことは第120話で紹介した。実はそのとき、タバコを一本だけ、いや、正確には半分だけ吸って、たまに気分転換をしていたことを告白したい。インドではチャイ屋においてタバコが一本ずつバラ売りされている。当時、一本2ルピー(銘柄はゴールドフレーク約4円)だったので、3ルピーのチャイとセットで5ルピーだった。タバコはチベット語でタマというが、当然というか、八世紀に編纂された四部医典には登場しない。極限まで疲労した脳にはタバコのニコチン成分が確かに効く感触があった。タバコがとっても美味しく感じられた。それくらい暗誦の課題は脳にとって過酷だったともいえる。ちなみにメンツィカン学生のほとんどは喫煙しないが、飲酒ともども禁止されているわけではない。ただしチベット僧侶はもちろんタバコも酒も禁忌である。
26、27歳、長野の農場で働いていたときは周囲がみんな吸っていたので、僕もつられてたまに吸っていた。当時は朝4時半から夜7時までのかなり激しい肉体労働だったたこともあり、それなりに美味しく感じられた。そして、この時期のタバコ体験はメンツィカンへとつながっていくことになる。
最近はあの暗誦の時代ほどに脳を酷使せず、農場の時代ほどに肉体を酷使しないからだろうか。それほどにタバコを身体が求めない。たまに吸っても美味しくは感じられない。タバコも砂糖(第227話)もコーヒー(第98話)も、健康業界からは悪くいわれることが多々あるけれど、言い換えれば、それくらいに日本での暮らしは、極端な効果を持つ薬草たちを必要としないほどに便利な社会になったということだろう。そもそもタバコ葉は大昔からなにも変わっていない。変わったのは人間のタバコに対する意識である。
さて、小学生への講義であるが、気がつけばあっという間に90分が過ぎていた。タバコに続いてコカコーラ、コーヒー、お酒など子どもたちの健康には有害とされるものばかりをあえて取り上げて、その歴史と有効性を語った。恐怖を与えて衝動を抑えるよりも「どんなものにもいいところと悪いところがある」と解説しつつ、子どもたちに考える余地を与えることで依存性を予防できるのではと僕は真剣に考えている。そしてもちろん、講義の最後に一言を忘れなかったことを強調しておきたい。「みんな、タバコとお酒は20歳まで絶対にやっちゃいけないよ。それが日本の法律だからね!」
参考:インドのタバコ事情
インドではタバコ葉を乾燥し丸めただけのタバコが売られている。「ビリ」と呼ばれ、一束25本で10ルピー(2008年当時。約20円)だった。一般労働者たちはよくこれを吸っている。フィルターがないがタバコ葉そのものの味がするので、まあまあ美味しい。ただしインドは州によって喫煙のモラルが厳しく取り締まられているので、ご注意を。
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