原因はラッシー(ヨーグルトジュース)に間違いない。あれはメンツィカン入学前の2000年冬のこと。ヴェナレス(バラナシ)に到着後、ガンジス川のほとりのお店で大好物のラッシー2杯(15ルピー×2)を一気飲みしてしまった。すると3時間後、激しい悪寒と下痢に襲われ、翌日インドの病院に入院するはめになったのである。ガンジス川の水でラッシーを薄めたのではないかと思い当たっても後の祭り。僕は小中高校の12年間、一度も学校を休んだことがないほどに抗生物質はもちろん薬とはほとんど縁がなかった。しかし、30歳にしていよいよ抗生物質のお世話になるときがやってきたのである。それまで育んできた身体内の微生物環境がまっさらにリセットされる寂しさを感じたが悠長なことはいってられない。結果、抗生物質はインド人医者が驚くほどの劇的な効果を現し3日後には退院できた。2004年に肺炎に罹りかけたときも、ここぞとばかりに抗生物質を服用すると、やはり医者が「過去に例がない」と驚くほどの治癒力を見せた。それまで抗生物質に身体が慣れていなかったおかげである。こんな経験があるので、基本的に僕は抗生物質に感謝の念を強く抱いている。
1928年イギリス人フレミングがたまたま培養シャ―レのなかに落ちた青カビの周りに大腸菌が繁殖していないことに気が付いた。後にノーベル賞を受賞する抗生物質ペニシリンの発見である(注1)。大切なのはここからである。いくら優れたアイデアがあっても大量かつ安定した供給ができなければ薬としては意味がない。アメリカにおいて実用化に至ったのは15年後の1944年。戦争の激化が早期実用化を促した。そしてペニシリンによって敗血症の心配がなくなったことで大胆な手術が可能になり、戦傷者の治療に劇的な効果をもたらした。戦時における日本とアメリカの国力の差は薬分野においても歴然としていたのである。ちなみに日本にも戦時中、碧素(ペニシリン)研究所があったが実用化に至らなかった。
アメリカは当初、青カビを大量に培養しペニシリンを分離精製していたが、1957年に石油(炭化水素)からペニシリンを合成することに成功し、さらなる安定供給が可能になった。ペスト、梅毒、結核、敗血症などそれまで人類が為す術のなかった感染症に対して人類ははじめて確かな薬を得たのである。したがって我々が現在抱いている西洋医学のイメージ「早く確実に効く」は明治維新からはじまるのではなく、ペニシリンが日本に普及しはじめた1960年ころから形作られたといってもいい。その後、ドイツ、アメリカ、日本を中心とした有機化学者たちによって、より効率的なペニシリンの合成法の研究が進み、その結果、豊富で安価になっていった。ちなみに東北大学薬学部時代の僕の恩師である佐藤先生は功労者のお一人である。
八世紀に編纂された四部医典のなかにはカビ(チベット語でハンブ)を用いた治療法は存在しないが、外傷治療の章のなかに酒麹を傷薬に用いる記述があり、菌類が持つ殺菌効果に気が付いていたことがわかる(注2)。しかも現在もチベットの遊牧民によって実践されている。また江戸時代の日本においても酒麹が傷薬として使用され、インディアンでも同じような民間療法があったと何かで読んだことがある。もしかしたらフレミングは民族医療的な知識背景があったうえで、つまり「菌は他の菌を駆逐しようとする」というヒントがあったおかげでペニシリンの大発見にいたったかもという仮説がうかびあがる。
人類の歴史を変えたペニシリンであるが、抗生物質の乱用とそれに伴う耐性菌の出現によって神話に陰りが見え始めているのは周知の事実である。幼少時から抗生物質を多量に服用している日本の事情をみると「将来、この子たちは大丈夫かな」と不安を覚えてしまう。西洋医学のまさに本場であるドイツやフランスでは日本ほどには抗生物質を処方しないし、民衆も抗生物質を日本人ほどに望まない。自分たちで開発してきた歴史があるからこそ抗生物質の本質を見極めることができ、したがって依存しない。だから、日本においても麹菌、青カビ、ペニシリンへとつながる抗生物質の歴史を追体験してみてほしい。そして、抗生物質が豊富に得られる現代社会に感謝を抱きつつ、将来への視点をふまえて投与するかどうかを医師、薬剤師といっしょに真剣に考える。責任を医師と薬剤師と患者が共有し、共に葛藤する。それが現代社会における抗生物質との付き合い方ではないだろうか。
最後にもうひとつ。インドに行ったら生水で薄めたラッシーは絶対に飲まないように。
注1
ペニシリンは大腸菌など細菌の細胞壁の合成を阻害することで効果を発揮する。人間(動物性)の細胞には細胞内膜はあるが細胞壁がない。したがって副作用は生じない。
注2
菌類は自己生存のために他の菌を駆逐するための物質を放出する性質がある。そのうちのほんのいくつかの物質が薬として役立ってくれる。
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