毎年3月になると早稲田大学の大学院生たち(教育学)がゼミ合宿として別所温泉を訪れる。ここ3回は地元の高校生たちもゼミに参加するようになり、昨年は「貧困」をテーマに問題点について討論した。 8月の夏休みには東京大学や外語大学の講師の方々と各地の医学部生たちが合宿に訪れ、医療人類学をテーマに熱く、ときに怒鳴りあうほどに盛り上がる。京都のお寺の住職さんたちが車で乗り合わせて来訪し仏教をテーマに語り合ったこともあった。会場はいつものゲストハウス(注1)だ。3年前の2016年に古民家を改装オープンし、金額的にも雰囲気的にも、気兼ねなく夜中まで語りあうことができる理想の宿である。
別所は温泉ゆえに歓楽街と思われがちだが、意外と学問的な土地柄でもある。事実、『日本歴史大辞典』によると「本寺を離れて、僧侶や聖が在住・寄住して宗教生活を行う宗教施設およびそれを含む一定の土地を別所という」とある。1290年に八角三重塔をもつ安楽寺が建立されたことに象徴されるように、鎌倉時代、北条家の庇護もあり多くの学僧が別所に集まったとされる。確かに山々に抱かれるような窪地のせいか、いい意味で「籠る」雰囲気が別所にはある。もちろん温泉の存在も学僧にとって魅力的だっただろう。そして別所を含む塩田地域一帯は学海(がっかい)と称されるようになり、鎌倉時代からいまに受けつがれている。だからなのか別所の自宅では執筆の仕事がとてもはかどる。振り返れば早稲田大学の修士論文と書籍『チベット、薬草の旅』はここで完成した。そして、どこの研究機関にも属さない在野の僕にも関わらず、別所の住人たちは「ああ見えて、まあまあ有名らしいわよ」と遠巻きながらに認めてくれている(ような気がする)。ちなみにチベット語で海はギャッツォといい、よく男性の名前に用いられる(注2)。
安楽寺 三重塔
いっぽう、薬房のある野倉は別所から距離にして2キロしか離れていないが雰囲気はガラッと変わり、開放的な里山といった感である。地名辞典によると「野倉(ののくら):平安時代の薬草倉庫」とあるけれど、いまのところ薬草の倉庫らしき痕跡も伝承もまったく見つけられない。キハダ、オウレンなど有用な薬草が豊富なわけではない。手がかりを求めて歴史書を調べると当時、この地方(小県郡:ちいさがたぐん)は朝廷への税金(祖)を主に薬草で納めていたことがわかった。まったくの想像ではあるが、野倉には税金としての薬草を朝廷に治めるための倉庫があったのではないか。野倉には当時の主要七街道の一つ東山道の支道が走り交通の便がよかったことも推測理由の一つである。だから、ここは薬草の営みに適した歴史性が残っているのではと思い込んでいる。たしかに“くすり”に関わる農作業、大工仕事などはすこぶるはかどる。これも土地のもつ力であり、けっこう、僕はそうした歴史の重みに対して無意識のうちに敏感に反応してしまう性質のようだ。逆に考えると、野倉で執筆や翻訳の仕事をしようとしても身体がウズウズして作業をしたくなるため学びにはやや適さないのだが。
また、文献が残っている少なくとも江戸中期以降から20年ほど前まで野倉では林業が栄えていた。現在は産業としての林業は途絶えたが、古老たちは当然のようにチェンソーを上手に扱う。そして、ここ野倉で必要に迫られたおかげで僕もチェンソー、ウインチ、ワイヤー、滑車に至るまで山仕事道具をおおかた揃えてしまった。もちろんプロのように仕事は早くないが、一本ずつワイヤーで固定し慎重を期したうえで大木の伐採を行うまでになった。すると「なかなかやるな」と僕への評価が高まっているのを感じるのだが、きっと林業を生業としてきた集落だからこそだろう。
その土地に適した営みを行う。すると目には見えない歴史の流れが背中を押してくれるような気がする。そういえばメンツィカンの構内にいると、強烈なまでの力を感じることがあった。四部医典を暗誦せずにはいられない不思議なまでの切迫感。また、同級生たちとともにヒマラヤに放り込まれると危険を冒してでも薬草を採りに行きたくなる使命感。ある意味、チベット医学の本質とはこうした「そうせざるを得なくなる」歴史の力であり、それを感受できる人間(アムチ)を育てる場がメンツィカンだったのではと、ちょっと話は飛んだ感はあるが、いま、こうして記しながらはっと気が付いた。
注1 アースワークスギャラリー
注2 ダライラマ法王の御名前はテンジン(仏法を司る)ギャッツォ(海)である。
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