デリーから南インドの終着駅バンガロールまでの44時間、二等寝台の粗末な座席で胡坐を組み、水以外は口にせず、ひたすらチベット語の般若心経を手にブツブツつぶやいている日本人の僕を、同じコンパートメントの西洋人たちは「これが日本の禅僧か」と感心とともに誤解していたようだ。あれはチベット語を学びはじめてちょうど1年が経過した2000年1月のこと。2週間のインド旅行中にチベット語の般若心経を完全に暗誦するという目標を立て、それ以外の書籍を携帯しないほどまでに自分を追い込んだ。チベット語で般若心経はシェラブ(智慧)ニンポ(心髄)という。
もともと仏教に強い関心はなかったけれど(第136話)、たぶんチベット人が大切にしているものを僕も共有したいという極めて単純な理由で般若心経を暗誦しようとしたのではと思う。もう一つ、般若心経を暗誦できるとチベット語が上達すると当時のチベット語の先生から助言を受けた気がする。そして急性腸炎で入院したときも(第244話)ベッドの上でひたすら暗誦の練習をしていた甲斐があって、ダラムサラに戻ったときには完璧に暗誦できるようになっていた。こうして日本の仏教を経ずしてチベットの般若心経から仏教を学びはじめたのは僕にとって幸いだったといえる(注1)。なぜならチベット語には(日本語には存在しない)物語調の前段と後段があるおかげで、物語好きの僕は容易にお経の世界に入り込むことができたからだ(第23話)。冒頭にあたる前段を暗誦すると僕のなかではいつもこんなおとぎ話が巡りだしていた。
「むかーし、むかし、霊鷲山(りょうじゅせん)でお釈迦さまが多くの僧侶たちと深い深いめいそうに籠っておられました。そのとき、観自在菩薩さまはすべての実体は空性を具えていることを理解しておられました。まさにそのときお釈迦様の神通力によってシャーリプトラが観自在菩薩に次のように質問したのです」
さらに終幕にあたる後段も盛り上がる。
「お釈迦様は“善きかな、善きかな”と縁起(空性)の解説を終えた観自在菩薩を讃えられました。すると、天の神々、人々、阿修羅たちもそれに続いて大いに褒め称えたのです」
このとき僕のなかではいつも霊鷲山にスタンディングオーベーションの拍手が鳴り響き、したがって少し興奮状態で般若心経を終えることになるのはいいのか悪いのか。そうして他の仏典はさておき般若心経の読経を物語調で続けたのである。空性(縁起)の思想を理解できなくともチベット社会に溶け込んでいく感覚が心地よかった。そんななかで迎えたメンツィカン入学試験(第15話)。最も難しいチベット語文法の試験(1000点のうちの200点)に望むに当たって、僕は般若心経のみを例文として用いながら答えるという乾坤一擲作戦を直前に思いついた。唯一にして馴染んでいる題材を用いることで採点者への印象をよくしようと画策したのである。そして20問ほとんどを般若心経で例文解答し、結果、最低限の点数を獲得できた。それは般若心経にはチベット語文法のすべてが詰まっていることを意味しているのだが、たまたまなのか、千年前の翻訳官たちによる意図的な業績なのかは僕にはわからない(注2)。
メンツィカン入学後は毎朝、同級生たちと一緒に大きな声で読経することで般若心経はさらに心身に浸透していった。とはいえ日常化しすぎた故だろうか、空性・縁起の思想について深く考察することはあいかわらずないままに卒業を迎えた(注3)。それでも帰国後に早稲田大学に入学して薬に関する多くの歴史書を読みこみ、日本社会の問題点(結果)の因はどこにあるのかを多面的に探り(第190話)、そして注意深く言葉と文字を選んで伝えようとしている現在の自分を顧みるにつけて、般若心経の影響が意識下に及んでいたのではと思う時がある。つまり因と果について注意深く考えるようになった自分に気がつかされるが、もちろんこれは縁起思想のほんの入り口に至ったに過ぎないだろう(注4)。ただ、不安と孤独に打ち震えながらインドの電車の中で唱えていた般若心経が、いまの自分の思想の種子なんだと考えると、あのときの僕が愛おしくなってくる。「頑張っているね。でも無理しないで何か食べたほうがいいよ」と声をかけてあげたくなってくる。
注1
日本語の般若心経は262文字に対してチベット語は約780文字から成り立つ。日本の般若心経は漢文が基本になっているために全般が呪文のように聞こえるが、チベット語の般若心経は言葉自体は容易なチベット語で構成されているので物語であり論説のように聞こえる。正式名称はシェラブギ(智慧の)パロルトゥチンペー(彼岸に至った)ニンポ(心髄)
注2
たとえば「~して。そして、に当たる接続助詞(チベット語でハクチェ)の例文を挙げながら解説しなさい」。または「連動接続助詞 ~しつつ、について解説しなさい」という問題などがあった。日本にたとえると「カ行変格活用」のような専門的な文法知識である。
注3
空性を学ぶためには、たとえば入菩薩行論や中論を学ぶ必要があるが当時の僕は興味を示さなかった。
注4
空性をよく理解した人は、「あらゆる存在は空性なのだから、すべてどうでもいい」と考えるのではなく、反対に、「すべての存在は空性であるからこそ、あらゆる状況において細心の注意を払わなくてはならない」ことを理解します。
『八つの詩 による心の訓練』(ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ チベット仏教普及協会 2008 P198)
参考文献
『チベット語の般若心経』(ケルサン・タウワ、津曲真一 カワチェン 2015)。
→ チベット語と般若心経を同時に学びたい方にお勧めです!
『チベットの般若心経』(ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ、クンチョク・シタル、斎藤保高、春秋社 2002)
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