チベット社会で「キドゥク」が開催されると、その日は深夜までドンチャン騒ぎが行われる。近隣のゲストハウスに滞在している外国人はクレームをつけるが、チベット人たちにとってはお互い様で馴れたもの。キ(幸せ)ドゥク(苦しみ)と呼ばれる同郷会はまさに幸せと苦しみをともに分かち合うことにその語源がある。たとえばラサ出身者が集うラサ・キドゥク。カム地方デルゲの人たちが集うデルゲ・キドゥクなど、日本の県レベルの規模で分かれている。ふるさとを離れた彼らは定期的にキドゥクを催して互いの近況を報告し、困っている人がいたら助け合う。外から見ればただの飲み会パーティーに見えるかもしれないが、彼らにとっては遠慮なく地元の方言で話せる機会でもあり、童心に戻ることができる貴重な機会なのである。
僕も最近キドゥク、つまり小中高校の同窓会に参加するようになった。40歳を越えたあたりで同窓会が頻繁に開催されるのは、おおよそ日本社会にみられる傾向のようだ。会場の居酒屋に足を踏み入れると、すぐさまコテコテの富山弁に戻ってしまう。「あんた、いま、なんしとんがけ?」「おわ、だっかわかっけ?」。余談ではあるが富山弁の疑問型の語尾は「け」でチベット語と同じくするため、若干、チベット語と雰囲気が似ている(注1)。田舎ではよくあるように保育園、小学校、中学校とほぼ持ち上がりなので結びつきは必然的に強くなる。つい先日のお盆(2019年8月)には戸出中学校の同級生たちが上田に遊びに来てくれた。たまたま甲子園での地元高岡商業の試合と重なったこともあり、別所温泉の居酒屋で富山弁全開で応援したのは最高に楽しかった。
ただ、日本とチベットではふるさとの「土地」への意識にはけっこう違いがある。日本では檀家制度ゆえにお寺、言い換えれば「土地」とのつながりをとても大切にする。なにしろ僕の父がそうだったために、土地に対する反発心が生まれてしまった。いっぽうチベット仏教では寺院ではなくラマ(高僧)とのつながり、言い換えれば「人」とのつながりを大切にする。つまり日本のように「先祖代々受け継いできた土地、お墓を守らねば」という概念はチベットではゼロとまではいかないがきわめて薄い。チベット人の思想は輪廻転生に根差しており、日本のような祖先信仰ではないことも一因としてあるだろう。たとえば日本の迎え火、送り火のような風習はチベットにはないし、またお墓の風習もない(注2)。
そういえば日本のテレビ局が北インドのダラムサラ(注3)を訪れて85歳の老母を取材し、僕が通訳を務めたことがあった。「ふるさと(カム地方のニャロン)がとても懐かしい」という日本人視聴者が好むセリフがどうしても欲しい取材陣に対して、老母は頑ななまでに「私はここで幸せだよ。多くの高僧がいらっしゃるからね」と譲らない。イライラする取材陣を尻目に、彼らには申し訳ないが「おばあちゃん格好いい!」と痛快な気分で通訳をしていたのを覚えている。そして、チベット社会に10年間暮らしたおかげで、ふるさとに対する僕の考え方は少しだけチベットに近づいたような気がしている。いい意味で土地やお墓に対する「あらねば」的な概念は薄まり柔軟になった(注4)。柔軟になることで、こだわりも反発もなくなって肩の力が抜けた。そしてチベット人と同じように故郷を離れたからこそ以前よりも故郷を想い、故郷の幼馴染たちをいままで以上に大切にするようになっている。
富山(18年)、仙台(4年)、北海道(1年)、佐渡(1年)、長野県三水村(3年)、望月町(2年)、インド・ダラムサラ(10年)、小諸(3年半)、練馬(1年)、そして上田に住んで6年。各地を転々としてきた自分は、果たしてここで根付くのだろうかという期待感はないし、そもそも「根づくべき」という概念は薄れている。とはいえ縁あってここ野倉の土地と出会い(第199話)、これからは「森のくすり塾」を基点として生きていくのだろうと、人ごとのように考えている。
年明け1月3日には戸出キドゥク(同窓会)が開催される。50歳の区切りを迎えた今年度、これからの人生をどう過ごすか、みんなと語りあうのを楽しみにしている。もちろんお墓参りにも行ってきます。
参考
キドゥクはもともと同じ地域に住む人たちの共同体、日本では「ゆい(第203話)」にあたる言葉である。したがって第203話のタイトルはキドゥクが正しかった。または同じ業種の集団、つまり同業組合の意味もある。
注1
たとえば、チベット語でドケ(行く?)、サゲ(食べる?)など。
注2
歴代ダライラマなど特別な高僧に関しては霊塔(チョルテン)が建てられる。
注3
北インドのヒマチャル・プラデーシュ州。チベットから亡命した人びとが多く暮らす。
注4
その他、チベット社会のおかげで柔軟になった概念には、たとえば「先輩後輩」「年功序列」の概念がある(第183話)。