第274話 タシデレ~おめでとう~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

タシデレ タシデレ

「Hello こんにちは」はチベット語でタシデレとされている。しかしタシデレを一語一語解説するとは輝く、は祥(さち)、は幸せ、レクは良い、したがって直訳すると「祥が輝き幸せであれ」となり「おめでとうございます」の意味合いが強い。

事実、もともとタシデレは新年の挨拶や目上の人に会ったときなどに使われる言葉で、日常の挨拶としては用いられていなかった。それが近年外国人との接触が増えるに伴って「こんにちは」に相当する言葉を一つに絞る必要性が生まれ、とりあえずタシデレが適用されたという経緯がある。実際1999年、僕が最初に訪れたころのダラムサラ(注1)では、チベット人同士は新年など祝日を除いてはタシデレを挨拶として使うことはなく、やたらとタシデレを多用する外国人に対する不満の声も耳に入っていた。「おめでとう」「おめでとう」という日本語が溢れている状況を想像してみてほしい。僕もチベット語が上達し、その原義が理解できてきた2年目から日常挨拶としてのタシデレに違和感を覚えて使わなくなった。ちなみにインドやネパールの挨拶ではナマステが有名だが、こちらの原義は「あなたを尊敬します」であり、やはり外国人が想像するほどには日常的に用いられない。

チベットのお正月(ロサール) チベットのお正月(ロサール)

チベット人が道で出会ったときに挨拶によく用いるのは「カワ(どこへ)ペゲー(行くの?)」を短縮したカワー↗(語尾を上げる)である。この挨拶の風習にまだ慣れない当初、チベット語を試す機会とばかりに「いまから図書館に行って、それから……」とバカ真面目に返答していたのはいまとなっては笑い話である。こんなときはヤー(上へ)、マー(下へ)、チャムチャム(お散歩 第265話)などと笑顔で適当に答えておくもの。巡礼や行商など移動が多かったチベット人ならではの挨拶だといえる。「こんにちは」に対応する言葉としてタシデレではなくカワーが紹介されていたら、それはそれで同じほどの違和感を伴いながら普及していたと思う。

チベットのなかでもアムド地方(チベット東北部 第94話)ではあいさつ代りにデモ(元気?)がよく用いられる。もともと日本語の「こんにちは」の語源は「今日はおげんきですか?」にあることを考えると日本人と相性がいい。「やーやー、デモ、デモ」とデモを繰り返すフレーズが心地よく聞こえる。同じくチベット文化圏、北インドのラダックでは挨拶がジュレーである。短いフレーズで発音しやすく、ラダックの大地に響き渡る語感を持っていて僕は大好きだ。ジョンバ(到着)レク(良き)、つまり「よく無事で到着された」に由来するとされ(諸説あります)やはり移動に関わる挨拶だといえる。日本では挨拶代りに「いい天気ですね」「雨が降りそうですね」と天気の話題をすることが多いのは、日本は天気の変化が豊かであるとともに農耕民族ゆえであろう。中国系の民族では「ご飯食べた?」が挨拶代わりだというから、それぞれの民族に生活に根差した挨拶があるのは興味深い。

風の旅行社オリジナルTシャツ 世界のこんにちは 風の旅行社オリジナルTシャツ 世界のこんにちは

余談ではあるがインド人、インド在住チベット人から、別れぎわに日本語でサヨナラと言われることが多くやはり違和感を覚えていた。数年まえにインドで「♪サヨナーラ、サヨナラ」という歌謡曲が大ヒットしたことに由来している。こうして異文化が紹介される場合、最初は一対一対応で単純化したほうが広く普及しやすいというもの。考えてみれば日本では「さようなら」は男女の別れか小中学校の帰宅時に用いられるくらいで、外国人にとっては正しい使い方が把握しにくい単語である。しかしサヨナラのおかげで日本文化への感心とともに、日本人との会話の切っ掛けが生まれやすくなったと捉えるならば、同じようにタシデレという一語に象徴されてチベット文化が紹介されたのも結果的に優れた方便だったといえる(注2)

先日、南インドのチベット人居住地を訪れたときのこと。チベット人同士でも日常的にタシデレを用いるようになっていることに僕は注目した(注3)。そこに違和感は存在せず20年前とはすっかり変わっている。外国との接触によって文化が変容し、そしてあたかもそれが伝統的であったかのように認識されていく。こうした文化の変容と定着は日本を含めてどこでもみられることだろう(注4)。その意味においてタシデレはようやく「こんにちは」という意味に変化したといえる。いずれにしても新年のいまだけは原義に相応しく使えるので僕はとっても気持ちがいい。

2020年、ロサル(新年)タシデレ!(おめでとうございます)

注1
首都デリーから北に500キロメートル。チベット亡命政府がある街。

注2
日本語での挨拶は「こんにちは」だけでなく「はじめまして」「やあ」「どーも」「失礼します」「久しぶりです」「元気ですか」など多様であるように、チベット社会でもタシデレ、カワー、デモだけにとどまらず挨拶としての声掛けは状況に応じて多種多様である。

注3
外国人との接触が多いインド、ネパールのチベット亡命社会における状況であって、チベット本土においてタシデレがどのように使われているかは正確に把握していません。
 
注4
たとえば忍者(NINJA)が挙げられる。

補足
2011年に作成した風の旅行社オリジナルTシャツは在庫がなくお取り扱いしておりません。

<小川康さんの講座・ツアー>