夏になるとヒマラヤの山々を駆けめぐりひたすら薬の原料となる薬草を採取した(第1話)。学生寮ではひたすらメンツィカン(チベット医学暦法大学)の学友たちと朝から晩まで苦楽をともにした(第169話)。卒業試験では60名近いチベット人に囲まれた真ん中に眼を閉じて座り、古代医学聖典『四部医典』を4時間半かけて暗唱した(第51話)。病院では患者の人生に耳を傾け、診断し薬を処方した(第163話)。そうして学び続けて8年目に近づいたあたりだろうか、不思議と「チベット医学」という分類が希薄になってくるのを自覚しはじめていた。「ひたすら」の反復行為によってその行為と自分との一体化がおきて自我が希薄になるような感覚だ。事実『四部医典』にはソワ・リクパ=医学とだけある(第176話)。
すべての植物を形態で分類し学名を与えたリンネウス(スウェーデン1707-1778)に代表されるように、西洋、すなわち近代の学問はあらゆるものを分類し明確な境界を作り、土地や山や川、草木、動物、微生物、病気、民族、風俗にいたるまで名前を与えた。1950年頃、チベットのソワ・リクパは「Tibetan Medicineチベット医学」と分類された(注1)。19世紀以降、近代国家はそうして強い国を作ってきた。その支配力の下に近代医学は存在し、分類を学んだ学生に国家資格が付与され、大量生産される薬と精密な医療機器、すなわち科学技術によって均質かつ安定した医学が行われる。
いっぽう急速に発展する近代医学に対抗すべく、チベット医学のイメージがアメリカや日本など近代社会によって、つまりチベット社会とは無関係に独自の変化を遂げていった。チベット社会で学んだ僕が、日本で目にし、耳にする(神秘性を帯びた)チベット医学の姿に違和感を覚えてしまうのはそうした歴史的な背景がある(注2)。
ちなみにチベット語で分類はナムバル(相を)・イェワ(分ける)、略してナムイェという。誤解のないように補足すると、「チベット医学」として分類、名称化され、さらには神秘化されることで海外からの注目と支援を受けやすくなり、それは確かにチベット難民社会における伝統医学の存続に役立っている。そのおかげで僕はチベット医学の存在を日本の書籍で知ることができ、そしてメンツィカンで学業を全うできたことを顧みれば、近代的な分類法の存在を否定するものではない。また僕は現代医学に敬意の念を抱きこそすれ批判的では決してない。もちろん薬の過剰投与、副作用問題など改善すべき点は多々あるであろうが、それらの問題を差し引いたとしても日本の医療事情は素晴らしい。日本を10年間離れたことでより強く実感することができた。それでもあえて問題点を挙げるとすれば、複雑化したがゆえに医学部では学習課題が膨大になり、現場の医師は多忙を極め、多様な分類を覚えることに必死にならざるを得ないこと。その結果として医学の向こう側に民衆の姿が見えにくくなることではないだろうか。
対象を分類し名前をつけると、それだけで理解したつもりになる危険性がある。その名前の向こう側で暮らしている人びとの温もりが感じられなくなってしまう、と僕は思う。かつて受験勉強の名のもとに多くの名前や分類、歴史年表を覚えて優秀な成績を修めたけれど、それ故に社会とのつながりを失っていたことに気が付き愕然としたのは21歳の夏のこと。僕が「チベット医学」という分類に躊躇してしまうのは、ある意味、自分自身への戒めでもあるし、自ら「チベット医学」と名乗ること自体が、どこかチベット的ではないような気がするからだ。2016年、信州の山奥に「薬房・森のくすり塾」を建設するにあたって、あえて「チベット」の冠詞を用いなかったのはそうした背景がある。
だからそんな僕が現代日本の医療に対して補完しうることが仮にあるとすれば、それは近代国家以前の思考。つまり分類学以前のシンプルな思考。そして大自然に左右される不安定な営み。不安定なゆえに必然的に生じる民衆とのつながりではないかと考え、日々実践しているところである。そして、そんな僕の曖昧な営みが「チベット医学的な」と他者から曖昧に分類されるならば、それはそれで吝か(やぶさか)ではない。
注1
チベット医学という単語が日本で最初に登場するのは、1957年芳村修基による論文『龍大西域資料中のチベット醫學文献の残葉』においてである。
注2
海外で持て囃されているNINJA(忍者)やSAMURAI(侍)に対して、日本人が違和感を覚えることに喩えられる。
参考
本稿は「マーマーマガジン 第3号(2017年4月)」に寄稿した文章に加筆したものです。