コース:ラダックの桃源郷に秘仏を訪ねて
-川﨑一洋さんと往く・仏教美術巡り-
2010年7月17日〜7月25日 文●中村昌文(東京本社)
極度に乾燥し、草木一本生えていないようなラダックの荒涼とした大地。その大地を貫くインダス川の流れに沿ってポプラや柳の木が立ち並び、その周囲には畑と村が広がる。人々の生活が大自然と寄り添うように営まれている様は何世紀も変わらずにいるようで、まさに『風の谷のナウシカ』のワンシーンのようだ。そんなチベット文化圏の西端に位置する北インド・ラダックには、1,000年以上前の壁画や仏像が今もなお人々の敬虔な信仰で守られています。
今回は、仏教美術の専門家である高野山大学の川﨑一洋先生の解説で、桃源郷のようなラダックにひっそりと残された、チベットの「秘仏」たちと出会う旅へ行ってまいりました。
川﨑先生は高野山大学で仏教美術を研究すると同時に、現役のお寺のご住職でもあるので、仏教に関する知識が非常に豊富であるだけでなく、それを我々一般人に分かりやすく説明することに長けていらっしゃいます。いつもニコニコ笑みを絶やさず、親戚の法事で菩提寺の和尚さんからお説教をしていただくような軽やかさで、おどろおどろしい密教壁画を解説してくださいます。そんな川﨑和尚を囲んで、12人の参加者が和気藹々と楽しく過ごした1週間の秘仏めぐりの様子をご紹介しましょう。
秘仏の洗礼 ピャン・グルラカン
日本を出て2日目。つまり、デリーからラダックの都レーに到着した当日の午後、我々が訪れたのはレーから車で45分ほどにあるピャンの谷。その村はずれの山の中腹に「グルラカン」はひっそりと建っています。
僧侶が修行する僧院(ゴンパ)とは違い、村人が管理しているこの小さなお堂(ラカン)にはあまり訪れる人もいません。しかし、その内部には多くの顔と腕を持ち、その手には頭蓋骨の杯、女性を胸に抱いたヘーヴァジュラや、恐ろしい姿をしたガルーダなど、密教の神々が小さなお堂の壁一面に描かれ、ラダックでも貴重な密教壁画が残されているのです。サキャパ様式で描かれた壁画の目は真ん丸に見開かれ、まるでこちらを凝視しているようです。暗闇で一人で見たらゾーッとしてしまうかも。
「カバンで壁画を傷つけないでくださいね」
と、川﨑先生。日本では重要文化財に指定されてもおかしくないような貴重は壁画も、この地ではガラスケースにカバーされることなく、無造作に公開されているのです。残念ながらあちこち剥落したり、雨漏りで変色したりしていますが、これらの壁画が本来は芸術品ではなく、信仰の対象だからなのでしょう。まだ高所に慣れていない我々は、薄い空気の中、ラダックで最初に出会った「秘仏」たちの迫力にただただ圧倒されるのでした。
秘仏を訪ねてインダスを下る バスゴ、サスポル
その後、レーでの2日間の観光で川﨑先生からチベットのマンダラの基本的な見方のレクチャーを受け、タクトク寺のツェチュ祭りを見学しつつ高度順応を済ませた我々一行は、今回の旅のテーマである「秘仏」に出会うためにレーを後にしました。
まず訪れたのは、バスゴのチャムチュンラカン。背後にそびえるセルザンゴンパとチャンパカランに比べものにならないほど小さな断崖に建つお堂ですが、本尊の弥勒菩薩を囲むように、壁面には水牛の頭を持つヤマンタカや、3面12臂のヘーヴァジュラなど密教の神々がびっしりと描かれています。確か先生の解説によるとインドチベット様式を模倣した後の作例だとか。隣の2つのお堂も、美しく華やかな壁画に満たされていましたが、「秘仏」度はチャムチュンラカンの圧勝です。
そして次に訪れたのが、バスゴから30分ほど車で移動したサスポルという小さな村。車を下り、小さな実がついた栗やアプリコットの木々を抜け、たわわに実った麦の穂が揺れる脇を過ぎ、雪解け水が水路を流れる村の中を歩くこと30分。村の背後にある砂礫の混じった崩れやすい土砂の堆積した崖に、ぽっかりと横穴が開いているのが遠目でも分かるようになります。その崖に穿たれたニダプク寺はお寺と言うよりも修行用の石窟。普段は近くの住民がお線香を上げに来ているだけだということですが、石窟の内部は右を見ても左を見ても、余白がまったくないほど、壁画で埋め尽くされています。
残念ながら砂礫でできた石窟は、日々風雨(と言っても雨はほとんど降らないが)にさらされているため風化が進み、壁画の残っていた5つの窟のうち見学できる窟は1つを残すだけ。これほどの芸術的価値のある仏教壁画が、あまり人々に知られることなく朽ち果てようとしています。「すべてのものは無常である」という仏教の教えのとおり、物事に執着しないラダックの人々の価値観がそうさせるのでしょうか? この日の秘仏度ナンバーワンはぶっちぎりでニダプク寺でした。
ラダックの至宝 アルチ・チョスコル
ラダック観光のハイライトはなんと言ってもアルチにあるアルチ・チョスコル=三層堂。チベットで一時期廃れた仏教を再興するため、10世紀末に西チベットのグゲ王国から、当時の仏教の先進地域であるカシミールへ修行に出されたリンチェン・サンポ。彼がカシミールから連れ帰った絵師や仏師、大工の手でアルチ・チョスコルは建てられたと言われています。
カシミール(グゲ)様式の壁画に描かれた仏様は、寄り目、細身で腰をくねらせ、隈取を使って立体感を出すなど写実的で肉感的なのが特徴。遠くイランや西洋の香りすら漂わせるようです。特に緑の般若波羅蜜仏母は、写真集の表紙になるなどラダックを代表する美しさ。写真撮影禁止なのが本当に残念。
しかし、ラダックのみならずチベット仏教美術の至宝といっても過言ではない場所。ということで、ここは別格。秘仏度は「測定不能」としておきます。
ラダックの重要人物リンチェン・サンポとアルチ・チョスコルの詳細はこちらもご覧下さい。
アルチ寺の仏教美術とリンチェン・サンポ
川﨑一洋さんと行く仏教美術巡り
月世界の千手千眼観音 ラマユル・ゴンパ
太古の湖に堆積した土砂の層が露出した「ムーンランド(月世界)」と呼ばれる奇妙な景色にたたずむラマユル寺。このお寺の「秘仏」は金剛界五仏の塑像が奉られているセンゲガンというお堂の大日如来像。と思っていたのですが、今回、現地ガイド・スタンジンの案内で、川﨑先生もご存じなかった小さなお堂=観音堂を見学し、まさに秘められた仏様=千手千眼観音と出会ったのです。十一面の観音像はよく見かけますが、これだけ立派な千手千眼はなかなかお見かけしません。ラマユルの秘仏に認定です。
美しい谷に残された秘仏 マンギュ
最後にラマユルからレーへの帰路、途中で幹線道路を大きく離れマンギュ寺へ。ここは幹線道路から外れているため、訪れる観光客も少なく、お寺と言っても小さなお堂に鍵番がいるだけで、修行僧もいません。お堂の内部には、まさに地域の人々がひっそり守っている秘仏がありました。本堂は金剛界曼荼羅など曼荼羅がメインで、こちらも非常に古くて価値があるものですが、個人的にはドアフレームの仏様や、チョルテンに納められた壁画や仏像に秘仏を感じさせられました。
残念ながら今年からお堂の中の撮影が禁止になりましたが、海外のボランティアによる壁画の修復が始まっており美しい村の風景ともども美しい壁画も守られていくのでしょう。
このようにラダックでは、非常に美術的な価値の高い「秘仏」が、小さなお寺や村のお堂に無造作に残され人知れず信仰されています。川﨑先生の解説は、そんな「秘仏」の持つ歴史や意味を、我々の前に引き出して「秘仏」を本来の「御仏のあるべき姿」に近づけてくれたのかも知れません。
正直、私も含めて参加された方々も仏教的な解説は断片的にしか頭に残っていないでしょうが、その断片をつなぎ合わせて徐々に理解していくのもまた、新たな楽しみになると思っています。
最後に、我々がラダックから帰国して2週間もしないうちに、ラダックで大きな洪水が発生して多くの方が亡くなり、家を失うなどの被害に遭われました。ご冥福をお祈りするとともに、一日も早い復興をお祈りします。
川﨑一洋さんと行く仏教美術巡り