2015年10月、雪の季節を迎えたモンゴルへ出張してきました。
以前から気になっていたモンゴルの「エネルギースポット」=サインシャンダ
10年ほど前にこの地を初めてパンフレットで紹介した時、日本で流行った「パワースポット」を意識してしまったので、どうも、「いかがわしい」イメージが頭にこびりついてしまい、斜め上からしか見ていませんでしたが、今、流行りの「行って見たら本当はこんなトコだった!」状態で、目からウロコが108枚くらい落ちました。
ここぞまさに、「モンゴル仏教の現在」があり、19世紀にモンゴルの宗教界だけでなく、モンゴルの社会に改革をもたらそうとした、「モンゴルの大塩平八郎(いや吉田松陰か?)」ことダンザンラブジャーの魂が息づく土地だったのでした!
その1 ダンザンラブジャーって何者?
ダンザンラブジャー博物館
「おっぱい岩」とか「エネルギースポット」というイメージや、「数々の伝説に彩られている」というキャッチフレーズから、大昔のスーパーマンのような行者さん=グル・リンポチェ(8世紀にチベット文化圏に仏教を広めたインドの高僧)的な人を想像していたが、実際に話を聞くと、その実像は想像とは全く違っていた。
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今回の取材にはMongol Kaze Travelの社長ハグワさんのほか、ハグワさんの高校時代の同級生で、現在はニンマ派の行者をしているチョー先生(「先生」と呼んでいて正しい名前を失念)が同行してくれた。彼の計らいでサインシャンダの街にあるダンザンラブジャー博物館の館長・アルタンゲレルさんと会うことができた。私は館長と呼んでいるが、ハグワさんは「7代目の寺守」という言い方をしていた。(詳しくは後述)
博物館につくとアルタンゲレルさんは、熱く語りだした。
①全ての人が読み書きできるように
②女性、特に母親を大切にする
③仏教を正しく理解し盲信しない
<注:by中村>裏返すと、当時のモンゴルでは
①ほとんどの人が読み書きが出来ず、②女性の地位は低く、親が大切にされず、③仏教や僧侶を盲信する人ばかりだった、ということです。
さらに、ここで注意してもらいたいのはその時代背景。中国(清)ではアヘン戦争が1840年。太平天国の乱が1851年-64年。第二次アヘン戦争(アロー号事件)が1857年に起きています。ちなみに日本で言うとペリーの黒船来航が1853年。明治維新は1876年なので幕末より少し前。つまり欧州列強が清国に進出して、清朝が腐敗しきってぼろぼろになる直前(もうなっている)です。
つまり、当時のモンゴルは清の支配下にあり、清朝とモンゴル政府(政教一致で僧侶が権力を持っている)は、一般のモンゴル人が強くなると自分たちの存在を脅かすのではという恐れから、庶民の学問を禁じ、支配層でもあった僧侶たちは宗教的権威を嵩に、腐敗して人々を苦しめていた。その結果、女性は虐げられ、倫理観や秩序が乱れていたということなのでしょう。
「僧侶=先生に頼るのではなく、自らと向き合って正しく生きなさい。その方法を先生から学ぶことが大切なのです。仏とは自らの心の中にいるのだから」
2.行動の人 ダンザンラブジャー
①全ての人が読み書きできるように
具体的には、各地に学校や図書館を作った(博物館に実際に彼の作った教科書などが残されています)
②女性を大切に、特に母親を大切にする
当時女性はオボーにお参りすることが出来なかったので、女性がお参りできるオボー=おっぱい岩を作った
③仏教を正しく理解して盲信しない
顕教(お経の勉強や理論)を重視するゲルク派(清朝・モンゴル政府の信奉するチベット仏教の宗派=現在の主流派)への批判からか、顕教だけでなく密教(瞑想やヨガなどの実践)も重視し、洞窟での瞑想修行など精神面の修行を奨励した。(彼自身はチベット仏教の「古派」と呼ばれるニンマ派の僧侶)。
ハマリン寺院やその周辺の修行地を開いた。
しかし、その後、清朝の勢力に暗殺(毒殺)された。1856年のことです。
死ぬ間際に
「中国とチベットは仏教の宝を失うことで落ちぶれるが、モンゴルにはその宝が来て発展するだろう」
と言い残したといわれています。
彼はあらゆる分野に精通したある意味「スーパーマン」でしたが、決して超能力や神通力で敵をなぎ倒すような「超人」では無く、一人の宗教家であり、医者、詩や劇や絵画を残した芸術家であるだけでなく、教育者であり、社会を変えたいと行動する改革者であったのです! どうです? なんだか幕末の志士を髣髴させませんか? 俄然、興味が湧いてきましたよ!