1991年5月に風の旅行社は、JR中野駅のすぐ側「シティープラザ」というマンションの一室で産声を上げました。実務スタッフは私を含めたったの二人、非常勤役員の比田井博(実は彼が、風の旅行社創設発起人)を含めても3人のスタートでした。しかし、実際の営業は11月から。それまでは、机すらなく電話一本しかない伽藍洞の6坪程のこの事務所で月1回程度、夜の9時ごろから集まって、ああだこうだと議論していました。
そもそも何故に、風の旅行社はスタートしたのかといいますと、発起人・比田井博が40歳に手が届かんとするころ、初めての海外旅行で、インドに行き、バラナシでふとカトマンズに行ってみようと思いつき訪れたことがことの始まり。そこで知りあった日本語ぺらぺらのネパール人に即「一緒に仕事をしないか」と持掛けた。なんともどこにでもありそうなうさんくさい話で、当然相手も本気にするはずもなかった。が、その後、数回にわたり比田井博は自分で客を集め、このネパール人のもとトレッキング客を送った。実は、何を隠そうこの私も、彼に誘われてネパールへ行った口。当時は旅行会社をやろうなどと考えたこともなかったのですが、全てはこれが、切っ掛けとなりました。
その時ガイドをしてくれた、プリスビーシュレスタが現在のNEPAL KAZE TRAVELの社長になっています。1990年10月トレッキング会社 「NEPAL PANORAMA TREK」 をこのネパール人たちで設立、カトマンズのラジンパットに一軒家をかりて日本人旅行者の連絡事務所兼宿泊所の「はなのいえ」を開設しました。普段は彼らのアパートも兼ねるという一種の「民宿」の様なものでした。
さあこうなると「日本でネパールへのお客さんを受け入れる窓口が欲しい。それなら旅行会社を作ろう。」ということになった訳です。私がまんまとこの発起人・比田井博の構想に乗り、長野県から上京し、他の旅行会社で少しばかり経験を詰んだ後、スタートとなったわけです。しかし、実際のところネパールだけでは食べられず、格安航空券の販売を中心に営業する日々が5年程続きました。その間、何とか「やりたいことをやり続けよう」 と少しずつ、ネパール、チベット、モンゴル、ブータンなどの手配及びツアーを作り続けてきました。
ネパールについては、現取締役の野村幸憲が1992年4月よりネパールに駐在し、11月にはタメルに事務所を移し、やっと常時お客さんを受け入れる態勢が整い、現在も主力商品の一つになっている「ネパールカセットプラン」を作りました。何時でも、たとえ一人でも安心して行けるネパールの旅、トレッキングのお客さんも、観光のお客さんも、たとえ航空券のみのお客さんも、「カトマンズにウチの事務所があります。カトマンズの空港へ着けば大丈夫」当時は、ただひたすらそう思っていただけでしたが、この考え方は、今の風の旅行社の最も大切な柱になりました。
その結果、1998年チベットに夏季 日本人駐在員1名、ネパール人駐在員1名を置いて現地エージェントと協力して受け入れ態勢を整え、モンゴルには、ウランバートルに支店を開設し日本人を常駐させました。ブータン 、南米、パキスタンなども、現地エージェントと深く付き合うなどの方法をとってきました。現地の受け入れを如何に作っていくか、それこそが、「いい旅」を作る大きなポイントになるのです。
1995年、風の旅行社は、スタッフ14人を数える様になっていましたが、この年、大きな転換点をむかえました。格安航空券と並行して販売してきたソウル、バンコク、香港などの格安ツアーをやめ、ネパール、チベット、モンゴル、ブータン、南米などのツアーに絞って販売することにしたのです。格安航空券はその後も販売をつづけましたが、1998年7月で広告販売を中止し、リピーターに絞り込んでの販売に切り替えました。
現在は、売上のほぼ70%をこれらの地域が占めるようになりました。この転換は、果てしない安売り競争に埋没し始めた旅行業界と決別し、専門性を高め、地域を絞り込んで特化していくことに活路を見いだそうという意味と、「風の旅行社にしかできない旅を作って行こう、それでだめなら仕方ない」というスタッフの意気込みから生まれました。1997年3月の大阪支店開設に当たっても、格安航空券の販売をせず、ネパール、チベット、モンゴル、ブータン、南米、などを売るための店と位置づけ、これで失敗したら、自分たちの商品が受け入れなかったと素直にあきらめようと考えました。幸いにも、大阪の多くのお客さんに支持を受け、この転換の大きな原動力となりました。
※風通信No1(1999年10月号)より加筆転載