西遊記のモデルになったといわれる玄奘三蔵。彼は629年、長安(現西安)から天竺を目指しました。唐の皇帝太宗は彼の旅を許しませんでした。しかし、真の仏教の教えを探求する気持ちが強かった玄奘は国の法を犯し、許可も保護もなく出国したのでした。大走破第1弾では、玉門関を越え、第2弾でタリム盆地のオアシス都市をたどり、ついに第3弾で天山山脈を越えます。玄奘ルートのハイライトでもある第3弾で、少しだけ彼の旅をなぞってみましょう。
注)シルクロード大走破2020日程用の記事です
当時、国境であり、この先は死の砂漠が横たわる玉門関を越え、仏教がさかんだった高昌国(現トルファン)や屈支国(現クチャ)(ともにシルクロード走破第2弾で訪ねます)で庇護を受けつつ、さらに先を急ぎ、天山山脈の山越えをします。 同行者にも死者が出た厳しい山越えだったようです。玄奘が越えたと推定されているペダル峠は現在通行不可のため、その西方にあるトルガルト峠(3,752m)を越えていきます。ここも長い冬の間は雪に覆われる場所です。
天山を越えればかつての西突厥の国。タクラマカン砂漠や、天山の厳しい山越えのあとには、気持ちのいい草原の国が待っています。遊牧民のユルタなどを見かけることもあります。
該当ツアー
悠久のシルクロード大走破【第3弾】
終了ツアー 新疆~キルギス~カザフスタン~ウズベキスタン 天山越えからオアシス回廊 玄奘求法の道をサマルカンドへ15日間
添乗報告記●新疆〜キルギス〜カザフスタン〜ウズベキスタン『玄奘の足跡を追う12日間』(2017年9月)
■今回の旅の出発はカシュガルから
カシュガルを含む新疆から中央アジアは現在イスラム教が主な宗教。仏教が盛んだった玄奘の時代とは趣きはかわってるのでしょうが、東西交易の十字路として、今も西新疆の中心地として君臨しています。玄奘本人は天竺へ行く途中、カシュガルは通りませんでしたが、帰途、立ち寄ったようです。
■天山山脈のトルガルト峠越え
カシュガルを離れると、荒涼とした山岳地帯に入っていきます。国境付近は特に中国も警備が厳しく緊張感が漂います。検問を過ぎ、イミグレーションで手続きを済ませた後も、国境の門に昼休みがあるためそれに間に合わないと国境手前で3時間待つ羽目になります。シルクロードはいつの時代もなんらかの関門があるのです。(涙)
■草原と天山の国キルギス
玄奘は西突厥では、厳冬期でも凍らない「熱湖」と呼ばれるイシククル湖のことや、西突厥の王に面会したことを大唐西域記に書き残しています。今は湖底に沈んだ町があること、周辺に温泉があることや風光明媚な場所として知られています
キルギス基本データ(気候・服装・食事・宿泊)
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ここでは湖畔のタムガという小さな村に宿泊予定です。なぜタムガに?それは、この村はずれの山中にチベット文字が彫られた岩(タムガタシ)があるからです。チベットから天山山中のイシククル湖までは、青蔵高原からはるか崑崙山脈を越え、タクラマカン砂漠を経て、険しい天山山脈の峠を越えなければなりません。ここにその岩があるということは、この道も細いながらも先人たちがたどったシルクロードの一部だったのでは?もしかしたら玄奘もこの道を下って湖にたどり着いたのではないかと大胆な空想のもとに、玄奘の山越えの追体験をしようと思ったのです。といっても、歩くのは片道3㎞程度のなだらかな山道です。ぜひ一緒に歩いてみませんか?
仏教、イスラム教そしてロシア正教・・・時代とともに様々な祈りがこの地を通過していきました
また、キルギスの田舎にはレストランが少ないため、腕に覚えのあるお母さん方が家庭料理をふるまってくれる民家食堂を利用します。ゲストハウスを含めキルギスの家庭料理は野菜やスープも食べやすく、肉食続きのシルクロードの旅にあって女性の方にも好評です。
■仏教遺跡とブラナの塔
玄奘が訪れた頃(7世紀)には、この地方を治めていた西突厥王は仏教に帰依していましたが、約100年後頃から、西から勢力を伸ばしたイスラム系王朝がこの地域を支配します。そのひとつカラハーン王朝が11世紀頃この地に都をおいたといわれています。ブラナの塔はその当時建てられたミナレットの遺跡です。
かつての都に残るブラナの塔(11世紀築)
ブラナの塔周辺には突厥の戦士の墓とも言われる石人がいくつもたたずんでいました
■ビシュケク
キルギスの首都。ソ連時代は、ここ出身のロシア革命の指導者の名前をとってフルンゼと呼ばれていましたが、1991年独立後はもとの呼び名に戻っています。
<関連情報>
「風のキルギス」トップページ
ビシュケクから2つめの国境を越えてカザフスタンへ入ります。
さらに西に進み、タラス河にも足を運んだようで、今のウズベキスタンの首都タシケント(当時の名称:石国)を訪れています。その後、玄奘は、今のサマルカンドを経て進路を南に変え、天竺(インド)目指していきます。
■タラス
西暦751年、東アジアを支配する唐(618~907年)とイスラム帝国アッバース朝(750~1258年)がこの地で激突。シルクロード史上最初の大きな戦争となりました。この結果、アッバース朝が勝利し、中央アジアはイスラム教の支配が確立され、仏教は影を潜めていくことになります。唐の製紙法が西へ伝わるきっかけともなりました。玄奘がこの地を訪れた約100年後の出来事でした。
そして、いよいよ3つめの国境を越えてウズベキスタンへ
■タシケント
■サマルカンド
旅の終わりは、青の都サマルカンド。チンギス・ハーンのモンゴル帝国が空中分解した後、中央アジアを統一したティムール帝国(1370~1507)の都。以前はマラカンダと呼ばれ、シルクロードを往来したソグド商人が活躍し繁栄していました。1220年チンギス・ハーンに、徹底的に破壊されましたが、ティムールによって再び息を吹き返します。ティムールは遠征先から技術者を連れ帰り、サマルカンドを再建したのでした。
今回の旅の移動距離は、カシュガル~サマルカンドで約1,900km。これだけでも十分遠く感じますが、当時は歩くか、馬に乗るか、らくだに乗るか。それを考えると、途方もない時間がかかったことでしょう。実際、西安から天竺までの往復全行程は30,000kmもあったといいますから、恐るべき旅だったことがわかります。国の保護も正確な地図もない時代、彼が乗り越えてた艱難辛苦は想像も及びませんが、天山の山越え、3回の国境越え、1,900kmの大移動を体験して、その片鱗に触れてみてください。
該当ツアー
悠久のシルクロード大走破【第3弾】
終了ツアー
新疆~キルギス~カザフスタン~ウズベキスタン 天山越えからオアシス回廊 玄奘求法の道をサマルカンドへ15日間
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2024年から始めるシルクロード大走破の旅
シルクロード大走破(第1弾): 見どころ一挙ご紹介!西安と河西回廊
シルクロード大走破(第2弾): 見どころ一挙ご紹介!天山南路~タクラマカン砂漠~西域南道2020
シルクロード大走破(第4弾): 見どころ一挙ご紹介!ウズベキスタン~トルクメニスタン~イラン2020
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イスタンブールからローマへの道14日間