セントヘレナ島と幕末の日本
薩長土肥の志士や新選組、日本の近代化を模索する幕臣や蘭学者が活躍した幕末と大西洋の絶海の孤島・セントヘレナ島。この二つには意外な接点があったのです。
ペリー艦隊から始まる外国船の到来により、江戸幕府は海軍の設立が急務であると悟り、長崎海軍伝習所を設立し、士官や技術者の養成に着手しました。
日本は開国し、外国船が頻繁に訪れるようになると、国力の差を現実のものとして受け止めるようになり、海軍力の増強には軍艦の建造が必要であると悟ります。
文久2年(1862)江戸幕府は最初、アメリカに軍艦の建造と留学生の受け入れを依頼しますが、南北戦争の激化で断られ、改めてオランダに木造軍艦の建造と留学生の受け入れを依頼しました。
文久2年(1862)、留学生は咸臨丸で横浜を出航して長崎に向かい、オランダ船カリップス号でバタビア(現在のインドネシア)に向かう途中で海難事故に遭い、バタビアでオランダ客船テルナーテ号に乗り換え、オランダのロッテルダムに向かいました。留学生には、後の海軍副総裁で維新後に閣僚となった榎本武揚、世界一周の見聞記『輿地誌略』を著して維新後は学校取調御用掛を拝命した内田正雄、『日本造船の父』と呼ばれた赤松則良、海軍教官として海上砲の操砲訓練の先駆者となった澤太郎左衛門、将軍・徳川慶喜の側近として議題草案を起こし後に啓蒙思想家となった西周、法学博士となった津田真道、御典医・林洞海の嫡男で維新後は陸軍軍医総監となった林研海らがいました。
一行がバタビアからロッテルダムに向かった航路はインド洋航路で、喜望峰を回り、途中、セントヘレナ島に寄航しています。
榎本武揚は、出航以来、航海日誌をつけていましたが、セントヘレナ島で敬愛するナポレオンの陵墓に参拝し、感銘を受け、航海日誌を海に棄てようとしました。親友・澤太郎左衛門は、航海日誌の破棄を惜しみ、貰い受けたという逸話が残っています。
オランダのヒップス造船所で建造された木造軍艦は『開陽丸』と名づけられ、留学生を乗せ、リオデジャネイロを経由して慶応3年(1867)3月、日本に帰国しました。
慶応四年(1868)、やがて明治と変わるこの年、正月三日午後五時、鳥羽伏見の戦いが勃発。前将軍・徳川慶喜は密かに大坂城を出て、アメリカ軍艦に送られて開陽丸に乗り込み、江戸に帰還します。このとき、艦長の榎本武揚は不在で、副長・澤太郎左衛門が艦にいました。老中・板倉勝静は澤に艦長代理を命じ、艦長・榎本を置いてけぼりにしたまま、出航したエピソードは有名です。後に江戸城が明治政府に明け渡されると、榎本・澤は開陽丸を旗艦とした幕府艦隊を率い、箱館へと向かいます。彼等を最初に乗せた咸臨丸は暴風雨で離脱し、静岡沖で座礁します。そして留学生の拠り所であった開陽丸も、箱館戦争の前哨戦であった松前藩との戦いの際、江差沖で沈没しました。
榎本艦隊は箱館五稜郭に立て篭もり、新政府に対し、独立の意思を見せますが、明治2年(1869)、新政府軍の猛攻により降伏しました。
新政府の中には、反乱者に対し、厳罰を以って臨むよう、説く者もいましたが、官軍参謀・黒田清隆(薩摩)は寛大な処置を奏上、榎本・澤をはじめ、多くの人材が新政府に登用されました。本来であれば歴史の紊乱者として賊として扱われるところ、彼等の技術や経験を惜しんだ黒田清隆の嘆願が功を奏したのです。
榎本武揚がセントヘレナでナポレオンの寓居や陵墓を見て、何を思ったのか、それは記録には一切残らず、歴史の中に埋もれてしまっています。一度は敗れてエルバ島に幽閉されたナポレオンが、密かに脱走して兵を指揮し、百日天下と呼ばれる政権奪還を行った史実に影響をうけたとは言えないでしょうか?大政奉還~鳥羽伏見の戦いを経て江戸無血開城で崩壊した江戸幕府の一将官として、政権の奪還とまではいかないまでも、幕臣の安住の地を築くことに、榎本武揚の幕臣としての意地があったのかもしれません。
セントヘレナ島とは
イギリス領セントヘレナ・アセンションおよびトリスタンダクーニャに属する南大西洋上に浮かぶ孤島です。
アフリカ大陸から2800km離れた孤島で、人口は4,000人ほど。
ナポレオン一世が流された島として広く知られています。
2017年10月14日に南アフリカからの飛行機が就航するまでは、船でしか行くことのできない島でした。イギリスの貨客船RMS(ロイヤル・メール・シップ)セントヘレナ号が、貨客船として南アフリカとセントヘレナ島、そしてアセンション島とを結んでいましたが、2018年2月に貨客船としての役目を終え、現在は貨物船として活躍しています。
この島がヨーロッパの歴史に登場するのは1502年(日本では文亀2年。後柏原天皇の御世。室町幕府第十一代将軍・足利義澄の治世)5月21日のこと。ポルトガル人の航海家ジョアン・ダ・ノーヴァによって“発見”され、コンスタンティヌス1世の母で聖女である聖へレナにちなんで名づけられました。船の修理に必要な材木と水が入手できたため、ポルトガル人は定住こそしませんでしたが、補給基地として用いました。
1584年(天正12年。正親町天皇の御世。足利幕府第十五代将軍・足利義昭が実権のないまま在職し、羽柴秀吉が台頭してきた時代)5月27日には天正遣欧少年使節が寄港しています。
1657年(明暦3年。後西天皇の御世。江戸幕府第四代将軍・徳川家綱の治世。明暦の大火の年)イギリスの東インド会社がセントヘレナの行政権を獲得し、ここにイギリス人の入植が始まりました。
1815年(文化12年。光格天皇の御世。江戸幕府第十一代将軍・徳川家斉の治世)10月、ワーテルローの戦いに敗れたナポレオン一世がこの島に流されてきました。ナポレオンはロングウッドの屋敷に幽閉され、以後、亡くなるまでこの島に留まりました。イギリスはナポレオン奪回を恐れ、セントヘレナ島、アセンション島、トリスタンダクーニャ島に砦を築き名実ともに領有化しました。
1853年(嘉永5~6年。孝明天皇の御世。江戸幕府第十二代将軍・徳川家慶の治世)には日本に向かうペリー提督のミシシッピ号が石炭補給のため、寄港しています。
飛行機の普及で、大西洋の補給基地としての地位を失うと、セントヘレナ島は再び歴史の彼方に姿を隠し、現在に至っています。
この島では、ナポレオン関連史跡や、英国風の街並が見られるジェームズタウン観光のほか、火山や海岸など、景観を楽しむことができます。
足で、車で、セントヘレナ島の主要観光地を完全制覇します。
企画・添乗予定
世界200カ国以上を歩いた“旅の鉄人”
立花 誠 (たちばな まこと)
風の旅行社に最初に入社したのが1996年4月。それから2003年まで在籍。その後、20年間の空白期間を経て2023年4月に風の旅行社に復帰。小学生のころ、中国文化の展覧会で翡翠の棺を見て、「日本の外の文化」に興味を持つ。初めて行った国は燐鉱石の輸出で世界屈指の裕福な国であったころのナウル共和国。それ以降、文化的なテーマを決めて海外旅行を続け、気が付いたら行っていない国はイスラエルとコソボだけに(2024年07月現在)。国内では「神話・伝説」に興味を持ち、紀伊半島や奈良、伊豆等を頻繁に訪れた。現在、風の旅行社でチベットやブータンを担当。趣味はコイン、紙幣、切手収集。好きな食べ物はダルバート、タジン、シャコのお寿司。