第87回●リクネー ~学問の価値~

小川 康の 『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

暗誦に励む女生徒

小さいころ、クラスのヒーローになれる条件は、喧嘩が強いか、足が速いか、面白いかであって残念ながら学問は一番ではなかった。勉強はできた方だったけれど、それが格好いいと思うことはなかったし、あこがれの○○ちゃんの気を引くためには体育の時間のほうがずっと大事だったものだ。
そして進学校に通っていた高校時代は近隣の怖いお兄さんたちから「どうせ、俺たちは頭が悪くてよー」と絡まれそうになってはビビっていた。情けない。仮にこの場面で「試験に出る英単語」や「世界史年表」を暗誦してみせたところで(実際に暗誦できていた)、怖いお兄さんは許してくれなかっただろう。学問はなぜこうも脆弱なのか、と思春期の僕はコンプレックスを抱き続けていた。そうして学問の価値を見いだせないまま、たくましい生き方にあこがれてボランティア活動や農業に走ったこともある。

戦国時代は剣術が、「魔女の宅急便」の世界では魔法が、のび太(ドラえもん)の夢の中では“あやとり”が、アフリカのある部族ではより高く跳躍できることが、それぞれ社会で認められる明確な価値基準であるように、学問で力強いヒーローになれる社会があったらなあ……。そんな夢のような社会にようやくダラムサラで出会うことができた。

なにしろチベット社会では仏教という学問(チベット語でリクネー)が敢然たる主役である。お尻が擦り切れるほど座り続けて勉強することが美徳とされるため、時間を見つけては気分転換にと街へ出かけていく自分の行動は非難されることが多く、当初、戸惑ってしまったものだ。朝夕に、メンツィカンの周囲の軒下や街灯の下で学生たちがブツブツと声に出しながら暗誦の練習に励んでいる光景は、日本ならば「あいつら危なくねえか」と揶揄されるところだろう。しかしここでは「よく勉強しているな。将来のチベット医学は安泰だ」と世間から称賛される。そんな環境だから、思う存分、学問の牙を剥き出しにして試験勉強に励むことができたのは、なんとも爽快だった。学問において気持ちよく勝った負けたと競い合うことができた(負けた時はもちろん悔しいけれど)。そして爽快な気持ちで学問を競争すると、スポーツがそうであるように、精神が健全に養われるような感触がある。

お坊さんの問答風景

 そんな社会の中において学問を究められ、大聴衆の前で学問の魅力を体現されているのが他ならぬダライ・ラマ法王なのである。なにしろ法王はティーチングの際は、その日のテキストに囚われず、膨大な仏教経典のあちらこちらから自由自在に必要な一節を引き出しながら説法される。実は一般のチベット人はもちろん、僧侶ですらも理解が追いつかないことが多々ある。かくいう僕もチベット語が上達するにつれて、法王の学者としての途方もないレベルの高さを理解できるようになってきた。それは日本における野球や相撲と同様に、非常に分かりやすい構造であるといえる。イチローの凄さを、社会全体で共感できる野球文化が日本に根付いているように、チベットでは仏教を共有する文化が成熟している。しかも抽象的な精神論・道徳としてだけではなく、学問としてのシステムを構築したことで、より価値基準が明確になった。だから学問ができる人が純粋に尊敬されている。

文系だ、理系だなんて細かな範疇もない。時代の荒波にも揺らぐことがないチベットの学問はいつだってシンプルで、何百年と変わらずに伝承されてきた。事実、法王のティーチングに参加していると、まるでお釈迦様の時代にタイムスリップしたのではないかという心地よい錯覚に囚われることがある。法王の周りをエンジ色のチベット僧が取り囲み、太古の時代と同じように玉座から仏教を説かれている姿はなんとも荘厳で美しい。もしかしたら、いま自分は歴史的な一場面の中にいるのではないかという興奮すら覚えたものだ。

実は、僕がギュースム(第24話)という8万語の暗誦試験にこだわった理由はそこにある。筆記試験という試験作成者との相対性が存在するものに合格してアムチになっただけでは物足りない。しかし聴衆に囲まれた中、体一つで挑む暗誦の価値基準は100年前も100年後も1,000年後も変わることがないだろう。結局のところ、自分がチベット医学に夢中になれた本当の理由は「学問でヒーローになりたい」という極めて無邪気な欲望にあったのかもしれないと気がついた。

休み時間に復習に励む同級生

でも日本で四部医典や般若心経をチベット語で暗誦しても、きっと、怪しい人としか見られないだろうなあ。だから、まずは日本にチベット文化を広めることから始めよう。そうして憧れの○○ちゃんが、ようやく僕のほうを振り向いてくれたとしても、もうそのときにはお爺さんになっているかも(笑)。

関連ツアー

参考 

マリアさんを囲んでの復習会

ダライ・ラマ法王のティーチングツアーでは、マリア・リンチェンさんが法王のお言葉を解りやすく通訳してくれるとともに、毎回、ホテルに戻ってから復習会を開催して理解を助けてくれます。

関連講座
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チベット文化を広めるためにチベット語講座を開催します。是非、お越しください。

イベント告知情報
1月22日に故テンジン・チューダック先生を主人公としたメンツィカンのドキュメンタリーフィルムの上映会「素顔のチベット医学」を開催します。私が解説しますので、是非、お越しください。
「素顔のチベット医学」(主催:株式会社Satvic、小川アムチ薬房)

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