「1999年8月のヒマラヤ薬草実習中でのことなんだけどさ、女生徒が崖から転落して意識不明になったんだって。それで、たまたま近くにいた男子生徒が彼女を背負って下山し病院まで運びこんだんだ。彼女は幸いにして一命を取り留めて回復。それで、それで、この事件がきっかけとなって2人は恋仲となり、卒業してすぐに結婚したんだってさ。へへへ……うまいことやったもんだよなあ」
2002年、僕たちは初めてのヒマラヤ薬草実習で何度もこの事故を聞かされたものだったが、話の主旨は「転落に気をつけろ」ではなく、恋物語の部分にあったのは言うまでもない。この話になると、いつもみんなの顔がにやけてしまう。メンツィカン関係者ならば誰もが知っている有名な恋物語である。
そして2011年3月、メンツィカン50周年記念式典(第91話)が終わったとき、ごった返す人混みの中から1人の男性が僕に声をかけてきた。初めて会う人だ。
「日本人のアムチとは君のことか」
「はい、そうですが」
「ちょうどよかった。私は学生時代、日本人のニシノさんという方に里親をしてもらっていました。5年間(1997年~2001年)に渡って学費の援助をしていただいた恩義は生涯、忘れることはありません。そこで、君にニシノさんへのお土産を託してもいいかな。住所ははっきりと分からないけど、多分、この団体に尋ねたら分かるかもしれない」
僕は、もちろん快く引き受けると、彼はもう少しゆっくり話をしようと茶館に誘ってくれた。そして奥さんが同期生で翻訳部門の仕事をしていることなどの話を聞いているうちに「はっ」と思い当たった。
「もしかして、あなたはあの『ヒマラヤ恋物語』の主人公ではないでしょうか」
僕の遠慮のない質問に、彼は破顔一笑、体をのけ反らせた。
「まったくまいったよ。みんな好き放題、話を面白おかしくしちゃってさ。そのとおり。私がその主人公だよ」
まるで歴史上の人物と出会えたごとき興奮。僕は「それで、それで」と野次馬根性まる出しで質問を繰り返した。
「あの日、雨が降りしきる中、アワ(第25話)を採取しに出かけた。しばらくして女生徒が慌てふためいて助けを求めてきたんで、駆けつけてみると彼女が血を流して倒れていたんだ。驚いたなんてものじゃない。すぐに背中に背負って慎重に下山したものの、あいにくメンツィカンのトラックは出てしまっている。そこで偶然、通りかかった西洋人にお願いしてマナリ(第13話)の病院まで運んでもらったんだ。病院ではずっと付き添ってあげていた。あとは知ってのとおりさ。今は6歳と4歳の子供がいる。そんなことも含めてニシノさんに私の近況を報告したいのです」
なんとも律儀なアムチである。彼のトンバ・キャブというチベット人にしては珍しい名前を聞いただけで、すぐにアムド(青海省)出身であることがわかった。省都の西寧(シーニン)の生まれだという。僕も西寧に行ったことがあるんだと言うと話は一層、盛り上がった。
2000年5月、メンツィカン入学前の僕は故・難波恒雄先生を団長とする表敬訪問団の一員として、青海省西寧にあるチベット医学病院(アルラ)を訪れたことがある。立派な薬浴センターや病院、羨ましいほどに豪華な博物館を見学させてもらった後、標高4000メートルの高原で冬虫夏草(チベット語でヤルツァ・グンブ)採集に挑戦することになった。いわずとしれたチベットの秘薬である。その名のとおり冬は虫なのだが、その死骸からキノコが伸びて夏にはほんの5ミリほどだけ地上に草が見える。その5ミリ部分だけを目指して四つん這いになり地に這うようにして冬虫夏草を探すが、これがなかなか見つからない。さすが採取を専門としている地元のお嬢さんたちは、次々と見つけては堀り取っていく。見つからなければ見つからないほど、誰がいったいどうやって、最初にこんな小さなキノコの薬効を見つけたのだろうかと、悔しまぎれの疑問が膨らんできたものだった。
ちなみに冬虫夏草はチベット医学教典「四部医典」には記されておらず、さらに、地元のチベット人は外国人ほどに秘薬として崇めていない。インドの薬草がチベットで重宝され、チベットの薬草が中国や日本でより重宝されるという「隣の芝生」の法則はどこでも見られることかもしれない。アムド出身の同級生が「1980年代に日本への輸出が始まってから大騒ぎするようになった」と語っていたのを思い出す。
務めるアムド出身のダクパ
「そうか、アムドはいいところだっただろう。食事は美味しいし、緑も薬草も豊かだし」。
概してアムド出身の亡命チベット人はお国自慢に遠慮がまったくない。そういえば、アムド出身のケンラブ先生は授業中に何度もふるさと自慢で脱線していたものだった。実際にアムド地方はチベットの中でも標高がやや低く(西寧は標高2200m)、気候が温暖なおかげで植生は豊かである。また、亡命チベット社会では「アムド・レストラン」とアムドを冠していることからもわかるように、料理が美味しいというイメージが根付いている。メンツィカン学園祭でのコックはいつもアムド出身のダクパが務めていたのものだった。
「今度の7月にガイドの仕事で、またアムドを訪れることになりそうです」
僕がそう教えると彼は再び、驚いた。
「そうか、羨ましいな。家族はいまも西寧にいるんだ。もし、時間があったら是非、訪ねてみてくれよ」
2時間近く話しただろうか。ニシノさんへの御土産が詰まった袋を受け取ると、ようやく別れた。今度、ダラムサラで会う時には、アムド紀行の思い出話で盛り上がることにしよう。そして一緒にアムド自慢に華を咲かせられたらと思っている。
(追記)
帰国後、日本の支援団体に問い合わせたところ、古い名簿が紛失していたために、ニシノさんの住所が分かりませんでした。心当たりの方がいましたら小川アムチ薬房まで御連絡ください。
7月の「青海チベット高原・薬草の旅」では冬虫夏草採取は計画されていません。
左から:2000年の表敬訪問団、チベット医学院の授業風景(当時)、薬浴施設
小川さんが講師として登場! 風カルチャークラブのツアー&講座情報
チベット医学のバイブル『四部医典』のエッセンスを表した絵解き図=チベット医学タンカを通じてチベット医学の基本概念を学びます。
アムド出身のアムチ(チベット医)たちは「草原には薬草がいちめんに広がっていて、とっても綺麗なんだ」と胸を張っていたものです。このツアーでは現地のチベット医学院を訪問し、さらにラサへと鉄道で抜けてチベットの薬草を満喫します。
町からも近い山中での薬草探し、ブータンの医療現場見学など、小川さんと一緒でなければ体験できない企画が盛りだくさん。多くの薬草実習をこなしてきた小川さんと歩き、植物観察を楽しみながらブータンを違う視点で味わいたい、そんな方におすすめです。