第155回●キ ~来世はアムチ~

図書館の前で幸せそうに眠る犬

いつも犬(チベット語でキ)が数匹、一緒に聴講していた。飼い犬というわけではなく、なんとなくメンツィカンに住みつき、授業となると必ず顔を出す。読経の時もお堂のどこかに居場所を見つけて寝ころんでいる。チュペル先生にいたっては、飼い犬のノルプを教室にまで連れて授業をしていたものだった。総じてチベット人は犬が大好きなので、犬にとっての生活環境は整っている。難民という不安定な立場ゆえに、犬を含めた動物たちに自然と優しくなれるのかもしれない。ちなみにダラムサラの犬の多くはチベット特有のマフチフス犬ではなく雑種である。また、チベット人にとっては欧米や日本のペットショップの存在は信じ難い。犬を同胞と思うからこそ、売り買いは人身売買と同じように映るからだ。

授業風景

チベット人は輪廻転生にもとづいてこう考える。きっとこの犬はチベット医学の教えを耳にしているおかげで来世、人に生まれ変わったらいいアムチになるかもしれない。もしくはアムチが前世に悪行を積んだために畜生界に落ちてしまい、名残惜しくて授業に出てきているのだと。だから、よほど吠えてうるさくしない限り授業でも読経の場でも学生たちと一緒に過ごすことが許されている。メンツィカンや図書館(第85話)の周囲にはたくさんの野良犬がいるのはそんな仏教的な理由があるからだが、ときに夜うるさくて眠れないという苦情も多く、けっして美談ばかりではないことを補足しておきたい。

僕はどちらかというと猫派だが犬も大好きだ。特にタリとは仲がよかった。色がまだら(チベット語でタタ)なことからタリと呼ばれ、猫のような犬のような、ちょっと不格好な犬だった。みんなからときに蹴飛ばされ、馬鹿にされつつもクリクリとした目玉には人への敵意がまったく浮かんでこない。ときにメンツィカンから30分も離れたマクロード(第6話)まで僕の後をついてくることがあり、「帰れ。ついてくるな」と何度も叱ったこともあった。

暗誦中の筆者
左手側に紙コップが置いてある

そんなタリとの忘れられない思い出がある。あれは僕がギュースムに挑戦したときのことだ(第24話)。最初は暗誦を快調に飛ばしていたが3時間を過ぎたあたりで意識朦朧となり、棄権するかどうか迷いつつも一語一語ゴールを目指していた。朦朧とした意識の中で、前に進むのを一瞬でも止めたならば再びスタートはできないことは本能が告げていた。最初から最後まで眼を開けることはなかったのも、一度として現実の世界に戻ってしまえば力尽きてしまうことを予感していたからだ。そんな苦しみにもがいていたとき、突然、講堂内に笑い声が湧きおこった理由が後で明らかになった。なんとタリが講堂に乱入し、日向ぼっこを兼ねて僕のすぐ側に寄り添ってくれていたのである。それだけならまだ微笑ましい。あろうことかタリは僕の手元においてあるコップの水を舐め、その直後にぼくは(手探りで)コップを手にして水を飲んだのだから、それは大笑いである。しかし、ずっと目を閉じて必死に暗誦している僕には事情がまったく呑み込めない。タリは僕の異常事態を察してそばに寄り添ってくれていたのだろうと考えるのは、少しロマンチックすぎるだろうか。でも、そうだとしてもコップの水は飲むなよな。

「頑張れ!」。僕を取り囲むタリと同級生、後輩たちの励ましを受けながら一語、一語、這いつくばるように進んでいく。そして4時間半後にようやく暗誦を終え、目をはじめて開けたとき、タリはもう講堂にはいなかった。

ダラムサラの野良犬

卒業して2年後の2011年にメンツィカンを訪れたときタリの姿はなかった。ある日から急に見えなくなったという。もしかしたらインド政府の一斉捕獲につかまってしまったのだろうか。もし不幸にしてそうだったとしても、僕のギュースムに寄り添ってくれた君は、きっと来世、人間界に生まれ変わったらチベット医を目指して勉強し、ギュースムを僕よりも上手に暗誦できることだろうよ。タリ、ありがとう。

(注)
チベット本土の遊牧民の犬は獰猛なので注意してください。

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