千回振りだしてもまだ苦いゆえに千振(センブリ)と名付けられた。高さ20センチほど、可憐な白色の花をつける小振りな薬草はそれくらいに苦く、「良薬は口に苦し」、または苦味健胃薬の代表格として300年近く日本に根差してきた。しかし、いまその歴史を終えようとしている。事実、日本各地の古老たちに尋ねると、決まって「そういえばセンブリを見なくなったなあ」という答えが返ってくる。つまりセンブリが日本の里山から消えようとしているのだ。以下にセンブリが激減した理由を考察してみたい。
センブリは里山の陽当たりのいい道端から1,2mほど少し入った場所に生える性質がある。人が歩くことで小道が踏み固められ、山側から流れてきた栄養分が道端に溜まりやすくなる。そんな特殊な土壌にセンブリは生える。したがって森に人が入らなくなると、山道が消えセンブリは育たなくなるという。あくまで仮説の一つではあるが妙に納得がいっている。もうひとつ、山々には戦後植林された杉、ヒノキが生茂ったことで下草に陽が届かなくなってしまった(第225話)。これは仮説ではなく確定的な原因である。さらにもうひとつ、昭和46年6月1日に発布された四六通知によって医薬品として認定され自由に売買することが禁止されたことも遠因の一つとして挙げられる(第184話)。昭和46年以前は、おばあちゃんたちが山でセンブリを採取しては朝市で販売していたが、現在は違法として取り締まられてしまう。
ただ、いまでこそセンブリはゲンノショウコ、ドクダミともに三大民間薬の一つと称されているけれど、もともと日本人と馴染みが深かったわけではない。たとえば万葉集には登場しないし、延喜式や風土紀などの古文書にも登場しない。文献上、最初にセンブリを確認できるのは1681年の『本草弁疑』である。その後、中国医学をお手本として和漢薬が発展し、胡黄蓮(第2話)の代用薬としてセンブリが抜擢されたことで一躍有名になった経緯がある。当時、幕府が薬草の国産化を勧めていたこともある(第234話)。冒頭で300年の歴史と記した理由はここにある。したがって同じ苦味の代表格であってもキハダ(第174話)やオウレン(第240話)ほどに歴史があるわけではない。また中国名でセンブリは当薬(とうやく)と呼ばれているが、漢方では用いられていない。事実、センブリの苦味はキハダ、オウレンほどにさわやかではなく、表現は悪いが「強烈」で「乱暴な」苦味である。最近は胃腸薬としてよりも毛髪剤として利用価値が高くなっているが、この刺激ならば毛根が復活してしまうは納得がいく。ちなみにチベット医学ではセンブリの仲間をサン(銅)ティク(苦味)と呼び、一部の解熱薬に処方されている(注)。
前段でセンブリの薬用的価値をやや貶めるようなことを解説したが、どうか誤解しないでほしい。僕は里山にセンブリなど薬草が豊富に生える環境を復活させたいと願い、実践している。前述したようにセンブリは薬草、薬木が豊富に産出する健全な森の指標の一つではと考えているからだ。杉を伐り、笹など下草を刈り、そして小道を踏み固めることでセンブリが生えてくる。こうして人が森と積極的に関わることではじめて薬草が生える森が保たれる。薬草が豊かに生える森はほどよく人の気配が漂っていると思う。
そんな理想の森が富山県上市町の薬用植物指導センターの片隅で育まれている。その実験林にはキハダ、メグスリノキ、杜仲という代表的な薬木が育ち、下草としてセンブリとオウレンが生えている。いうなればヘンデルとグレーテルの「お菓子の家」ならぬ「くすりの森」とでもいおうか。理想的な「くすりの森」はわれわれ日本人がイメージする「緑豊かな森」とはちょっと異なっている。地表は木漏れ日の光に溢れ、森というよりは草原のイメージに近い。こんな明るい森のイメージをみんなに共有してほしい。現在の日本の森を見たときに「うわー、鬱蒼としているなあ」と問題意識を抱いてほしい。そうして日本の各地にセンブリやオウレン、ムラサキが下草として豊かに自生する里山を育てていきたい。
と、ここまで力説したのは5月のくすり旅~越中・とやま上市の芍薬編~にお誘いするためでした。くすりの森で一緒に語りあいましょう。
注
チベット医学では草木の分類・命名法として金・銀・銅・鉄を用いることがある。鉱物としての銅と関係があるわけではない。
補足
センブリの人工栽培は難しかったが近年になってようやく栽培法が確立され、現在は上田市隣の青木村で生産されており、日本国内の数少ない需要に応えている。
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