ダンザンラブジャー博物館
博物館で学芸員(左)の説明を聞くハグワさん(右)
アルタンゲレル館長の長い話(序章参照)が終わると、我々は博物館の展示を見学することにした。担当の学芸員さんが隣に立ち、一つ一つの展示について解説してくれる。(もちろんモンゴル語なので、同行のハグワ社長が通訳してくれる)
<参考記事>サインシャンダ、行ってみたら本当はこんなトコだった!
仏画の設計図となる下絵
医師(アムチ)として使っていた薬草や医療器具、医学書。
画家として使っていた仏画の下絵。
教育者として学校で実際に使用した文字や綴り方の教科書。
劇作家として書いた劇の台本(脚本)や音楽の楽譜。
もちろん僧侶として使った法具、仏具、衣装などなど、実際に彼が使った貴重な文物が並んでいる。
なるほど、あらゆる分野に精通した人物だったのだと分かる。
そんな貴重な品がガラスケースにきれいに収められていている。彼の在世が意外に最近のことだということに気付かされるとともに、その保存状態のよさと種類の豊富さに目を見張る。
しかし、なぜこんなに大量の品がモンゴルの社会主義革命や文化大革命を乗り越えられたのだろうか?
実は、アルタンゲレル館長が語ってくれたこんなストーリーが隠されていたのだ。
ダンザンラブジャーの遺品は、彼の開いたハマリン寺院に1911年の社会主義革命後も保存されていたのですが、1937年から38年にモンゴルに文化革命の嵐が吹き荒れ、宗教が全面的に否定されてしまい、そのとき政府によって破壊されそうになったのです。そこで当時のお寺の6代目の管理人(寺守)だったトゥデヴ(Tudev)という人物が64個の箱に収めて地中深く埋めたり洞窟に隠したりして、難を逃れたんだそうです。
実は、このトゥデヴさんは現在の館長・アルタンゲレルさんの実のお祖父さんだというのだ。お祖父さんから隠し場所を教えられたアルタンゲレルさんは、このお宝を掘り出し、サインシャンダの街にダンザンラブジャー博物館を建設した。だから、ハグワさんは館長さんを「7代目の寺守」と表現したのだった。
実はまだ地中に残っている箱がいくつかあるのだそうだが、きちんと保存できる状態に無いため、敢えて掘り起こさずに置いてあるそうだ。そのありかについても盗掘を心配して秘密にされている。
普通なら1時間もかからない博物館を、午前中いっぱいかけて見学し終えた我々を待っていたのは、ダンザンラブジャーが近隣の遊牧民に寄進させた「数千の刃物」を溶かして作られたグル・リンポチェの像。
<関連記事>Who is グル・リンポチェ
もともとはダンザンラブジャーが開いたハマリン寺院のご本尊だったのだが、盗難を恐れて博物館に保管されているそうだ。普段は一般に公開されていない秘仏にご対面できるとは運が良い。早速、五体投地でグル・リンポチェに祈りを捧げる。
さらに当時ダンザンラブジャーが実際に使っていたという聖杯(意外にデカイ)を使い、お供えの酒(さまざまな酒が混ざっている)を一気の飲み干すと、胃の内容物とともに、運気も上昇する気分である。ウーッぷ。<・・・つづく>
<出張報告記 序章>サインシャンダ、行ってみたら本当はこんなトコだった!
つづきはこちら
<出張報告記2>ゴビ砂漠のハマリン寺院
<出張報告記3>いざ、シャンバラへ
<出張報告記4>世界の中心で「欲」を叫ぶ!
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