知を深める旅へ
大学受験の時に通っていた予備校の世界史の先生が、“おすすめの学習方法”として授業中によく口にしていた言葉があります。
“知行合一”、それは、知識と行為は一体であるということ。本当の知は実践を伴わなければいけないという陽明学(*1)の教えです。本や人の話から知り得たことを、自分の身体を使って本物に触れながら学ぶことができたら、その知識はより深いものになるだろう。各地を旅した先生による世界史の授業は、まるで大きな世界に繋がっている物語を聴いているかのようで、わたしたちの知的好奇心を強く掻き立ててくれました。
(*1)陽明学は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。心即理・知行合一・致良知の説を主要な思想とする
その数年後、私はある出来事をきっかけに、カザフの女性が作った刺繍壁掛け布トゥス・キーズに出会いました。その布には、ひと針ひと針丁寧に刺繍がほどこされていて、縫い目に触れると不思議と温かみを感じます。何度も布を眺めているうちに私の脳裏には、再び“あの”言葉が浮かんできました。そうだ、この布が作られた場所で刺繍を学ぼう。こうして、モンゴル国の最西端に位置するバヤン・ウルギーという土地に長期滞在することに決めました。
こんな大きな布に一体どうやって刺繍しているのだろう?一枚縫うためにどれくらいの時間を費やすのだろう?誰が刺繍するのだろう?
現地で実際に刺繍しているところを見ることによって、布を眺めている時に浮かんできた様々な疑問を少しずつ解決していきます。それでもやはり、見ているだけでは物足りないと感じた私は、見よう見まねで刺繍を実践することに。
針と枠、そして布を準備してもらい、いざ挑戦。カザフの女性達は皆スイスイと刺繍していくので、簡単に出来るのだろうと思っていたけど、これがなかなか難しい。元々不器用ということもあって、まともに直線を縫う事すら出来ない日々が続きます。結局、私には向いてないと思い、途中で挫折してしまったのでした。
文様をひとつ縫い終わらせるまで
そうは言っても、どうして自分だけこんなに出来ないのだろう?一体何が悪かったのだろう?疑問が深まるばかりだったある冬のこと。ひとりのカザフ人女性が「私のところで刺繍をやってごらんなさい」と、声をかけてくれました。
彼女の名前はアイナグルさん。バヤン・ウルギーにはカザフのかぎ針刺繍の担い手はたくさんいますが、なかでもアイナグルさんは素晴らしい技量の持ち主でした。彼女はまるでミシンのように正確に一定のスピードで縫い進められることができますし、多くの文様の形状を記憶しているため布の上に下絵を描かずとも文様を刺繍することができます。
刺繍に再挑戦することにした私に、彼女はまず小さなカザフ文様を描いた布を与えてくれました。「この文様を完成させることからはじめましょう」。
アイナグルさんは縫い方を一から教えてくれるというわけではなく、ただ私の隣に座って毎日一緒に刺繍をしてくれました。カザフのお母さんも、自分の娘に刺繍を教える時は縫い方を特別に教えるということはしません。道具と材料の準備を手伝って、文様をひとつ描いてあげて、あとは傍で一緒に刺繍するだけ。それは、教えるというよりは導いているようにもみえます。
隣で苦戦していた私をみてアイナグルさんはあることに気が付きました。「ああ、これじゃうまく縫えない。貸して」といって、私のかぎ針の先端を削りなおしたのです。
カザフの刺繍用かぎ針は、基本的に身の回りにある物で作られます。例えば、スプーンの持ち手やタイヤのスポークを削って形を作るか、編み物用のかぎ針を削りなおして作ります。刺繍枠も同様に、身近で手に入る木材や鉄の棒などで作られます。「あれがなくちゃ、これがなくちゃ」ではなく、ある物を工夫して使うことで最大限の良い物を作ろうとする彼らの姿勢からは、いつも考えさせられることが沢山あります。
削りなおしてもらったかぎ針で縫ってみると、前よりは少し速く縫えるようになりました。それでも、かぎ針を引き抜くときに地の布まで一緒に引っ張って布をボロボロにしたり、刺繍糸を途中で切ってしまったり、縫い目の大きさを揃えられなかったり・・・相変わらず課題は山積みでした。
「道具のせいじゃない、それを使っている自分の腕の問題だ」。上達したいとはやる気持ちと、うまく縫えないことへの苛立ちを抑えつつ、毎日少しずつ縫い進め、そして数日経ったころ遂に初めて自分の力で文様を縫い終わらせたのでした。それは、決して満足のいく出来ではありませんでしたが、自分で最後まで縫ったことによってアイナグルさんや他のカザフの女性達にやっとほんの一歩近づけた気がしました。
もう一人の“アイナグル”に
ひとつ文様を縫い終わらせると、アイナグルさんはすぐ違う形の文様を用意してくれました。そのおかげで、私の刺繍技術は着々とステップアップしました。
アイナグルさんが教えてくれたことは、縫い方よりもむしろ色使いについてでした。というのも、「自分の好きな色で自由に縫ってごらん」といわれていきなり縫おうとしてみても、色合わせに失敗することを恐れてなかなか思い切って縫えないのです。
カザフの女性達は、刺繍壁掛け布トゥス・キーズを作る際に色見本を準備することなく、自分の感覚を頼りにして、その時手元にあった色糸を使って作りあげます。もし、糸が足りなければ、古くなった洋服をほどいて糸とすることも。良い物を作るためには時間も手間も厭いません。
また、刺繍枠のサイズよりも大きな布に刺繍する場合、枠内に収まらない部分は枠に巻き付けて固定してしまうため、布全体を眺めて各部の配色を決めることができません。それでも、カザフ女性達は頭の中で大まかな色配置を決めて、どんどん縫い進めます。“偶然”も含めて構成されるその絶妙な色合わせには、多々驚かされます。
枠内に収まりきらない布は、枠脇に巻き付けて結んでおく
赤と緑、青とオレンジなど、補色の関係にある色の組み合わせを好むカザフ人が作る刺繍布は、一見すると強烈な印象を与えます。ところが、これが天幕型住居の中に飾られると、住居の中がやや暗いせいもあるのか、室内にちょうどよい鮮やかさを加えてくれるのです。カザフの遊牧民たちが暮らす大自然の中では、特に強い色彩のものがあるわけでもないのに、どうしてこういう色彩感覚が培われてきたのでしょうか。カザフ人同士の間で共通している美意識のようなものがあるのでしょうか。色使いについてアイナグルさんと色々話をしているうちに、そういったカザフ人の感覚への理解に至るまでには、まだまだ修行が足りないのだなと自覚しました。
色彩豊かな刺繍壁掛け布「トゥス・キーズ」
来る日も来る日もアイナグルさんの家に通い、必死に刺繍を続けていたある日、彼女と旦那さんが刺繍する私をみて突然笑い出しました。自分でも信じられなかったのですが、いつの間にか自分の刺繍するスピードがアイナグルさんに追いつくようになっていて、ドスドスというかぎ針で布を刺す音が彼女の音と合わさって二重に聞こえてくるようになっていたのです。「アイナが二人いるみたいだ」と旦那さん。気がつけば、かぎ針を布にひっかけることも、糸を途中で切ることもなくなっていました。
刺繍布を手にしたことからはじまり、縫い目にふれることによってその魅力に惹かれ、自分の眼で作り手をみて学び、実践をつうじてその奥深さを感じ、刺繍の音から自分の成長を知る・・・刺繍技法をあらゆる感覚を使って体得する過程は、刺繍文化だけでなく、彼らの思考や世界観そのものに近づいていく過程でもあり、深めていくほどに自分のもつ感覚すら変化していきます。これこそが、“知行合一”の醍醐味ともいえるでしょう。
布作りの未来を想う
アイナグルさんの家の倉庫には、たくさんの古い刺繍壁掛け布があります。それらの全てがアイナグルさんの作ったものというわけではありません。アイナグルさんは、他のカザフ人が手放した古い刺繍壁掛け布を集めて、その布でカバンやポーチなどの小物商品を製作しています。集められた布の中には、「〇〇年××のために」と縫われたものも。
カザフ女性は自分の子供や家族が幸せな状態になることを願い、その願いを表すために刺繍壁掛け布を作ります。お母さんが愛情をいっぱい込めて作る刺繍布は、それぞれの家に飾られて、“家族の歴史を刻む布”となっていきます。
刺繍をするアイナグルさん
アイナグルさんと夫のカディルベックさん。
2013年のナウルズのお祝いにて
アイナグルさんのところにたくさんの古い刺繍布があるということは、それだけたくさんの家族のもとから思い出の品が手放されたということを意味します。大事なものは手放さずに自分のところに留めておくことを是とするわたしたちの感覚からすると、どうしてそんな大事なものを簡単に手放してしまうのだろう、と不思議に思うかもしれません。
しかし、カザフ刺繍をやってみて、この状況を違う視点で見られるようになったのです。つまり、自分で刺繍できるとドンドン新しいものを作りたくなってくるのです。今度はもっときれいに縫おう、次はこういう文様を縫ってみようと、製作意欲が湧いてくる。刺繍の実践を経て、カザフ女性達には常に新しい良きものを生み出す力があったからこそ、古い布を手放す事が出来たのかもしれないと思い至るようになりました。家族の歴史を刻んだ布を失ったとしても、家族のことを想うお母さんの気持ちは絶えることなく続いていくものだから・・・その想いが続く限り、いつだって新しい刺繍布は生み出されるのです。
一方、アイナグルさんの娘さんは私に言いました。「私はどんなに観光客からお金をもらっても、お母さんが私のために作ってくれたこの布だけは絶対に売りたくない。ずっと手元に残しておきたい」。
大好きなお母さんが作ってくれた布ですから、娘の立場からすれば、その想いを残しておきたいと思うのは当然です。しかし、それだけが理由ではないようにも感じられます。
アイナグルさんの娘さんはかぎ針で刺繍することができません。アイナグルさん自身、年々歳をとり、大きな布を作る体力がなくなっています。娘さんの中には、もし布を手放してしまったら二度と自分では作ることが出来ないという意識があるからこそ、一層それを大切に残そうとしているかのようにも思えます。
少し前までのカザフ人社会においては、誰もが刺繍技法を知っていて、当たり前のように刺繍布を作っていたのでしょう。しかし、生活スタイルが変わって刺繍に時間を費やすことができなくなり、楽な電動ミシンに製作を頼るようになり、結果として自分で良い物を作り出す力を失いつつある今、布の製作や使用を経て得てきた彼らの価値観や世界観にも、今後大きな変化が訪れるかもしれません。
専門は文化人類学。モンゴル国西部バヤン・ウルギー県に2年留学し、カザフ人と共に生活することで彼らの文化を学ぶ。特に、遊牧民の手芸文化・装飾文化に関心を持ち、バヤン・ウルギー県滞在中にカザフの手芸技法を習得する。「カザフ情報局KECTE」を通じて、主にモンゴル国のカザフ人に関する情報発信を行っている。
廣田さん執筆による、カザフの春の祝祭ナウルズについての記事、「ウルギーの春とカザフのナウルズ」もぜひ併せてご覧ください。
廣田千恵子さんの国内講座・ツアー
遊牧民の手芸・装飾文化研究家・廣田千恵子さんが同行
終了ツアー 【新企画】カザフ刺繍を学び・フェルトの敷物を作る合宿 3日間
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