その村の名前も、家伝薬の名前も、その薬を受け継ぐ古老の御名前も、あえて記さないが、秘伝(チベット語でメンガ)とされる家伝薬がかろうじて現代に受け継がれ、そして山あいの小さな村で消え去ろうとしている、その物語りだけは、この場を借りてどうしても伝えておきたい。
「そういえば、小さい頃、病気になったらAさんの家で作られる苦い薬をもらってきていたよなあ」。昨年、所用でその村を訪れたとき、村民同士で何気に交わされた会話が僕の耳にとまった。「どんな薬か覚えていますか?」という僕の問いに「黒くて苦かったことしか覚えていないよ」と素っ気ない返事が返ってくるも、僕はその村を訪れるたびに家伝薬に関する質問を繰り返していた。なぜだか気になって仕方がなかったのだ。
そして、その熱意がようやく実り、先日、村の職員と一緒に古老(Aさん)の家を訪れる機会を得たのである。
よく晴れた昼下がり。山間の大きな一軒家を訪れると86歳になる古老が出迎えてくれた。お一人で暮らしているという。腰は少し曲がっているが、いまも畑に出かけるほどお元気だ。「よく、いらっしゃった」とお茶を御馳走になり、簡単に自己紹介を終えると、我慢しきれないとばかりに、僕は家伝薬についての質問を切りだした。すると、古老はしっかりとした口調で、そして丁寧に家伝薬の歴史を語ってくれた。
いまから200年前、1800年ころのこと、確かな理由は分からないが御先祖様が漢方に興味を抱き、独学で薬の処方を考案したのが起源だという。当時はいまのような薬事法がなかったから、誰でも薬を作ることができたのである。地元の山で採取される3種類の薬草と、中国から輸入される7種の薬草、合わせて10種の組み合わせからなる処方で名前を○○散という。それから一子相伝のように伝えられ、古老が4代目にあたる。古老が嫁いだ若い頃は家族全員で山へ薬草を採りに行き、洗い、乾燥し、粉砕していた。先代は街の市場に出かけては貴重な生薬を入手してきていた。こうして作られる家伝薬は地元の村民はもちろん、遠くは北海道からも求める人がいたという。
かつて、日本の各地、特に薬草が豊富な信州の村々や、薬で有名な越中とやまにはお手製の家伝薬があり、村民たちの健康を支えていたが、現在ではほとんど見ることができない。それは、いつのころからか、ではなく、正確には昭和46年の四六通知、続いて昭和51年にGMP基準(医薬品の製造と品質管理に関する基準)が制定されたその日を境に、これらの薬や薬草は消え去った。高水準の設備を保有する工場以外での製薬を禁止したことで、家庭的な製薬はすべて廃業せざるを得なくなったのである(注)。古老の世代は、昭和51年以前の記憶をとどめている最後の世代といえる。
「儲けのためじゃなくて、薬を求める人がいるから、それに応えて作っていただけだよ」と語る古老の語りは薬のあるべき姿の本質をついている。「でも、だんだんとこうした薬が顧みられなくなって、30年くらい前から薬の法律も厳しくなって、薬を作ることはほとんどなくなっていった。それでも、どうしてもこの薬でなくてはならない、という患者さんがいたから、細々と続けていたんだよ」。
「いまはもう、作らないんですか」
「5年前に一度、請われて作ったのが最後だねえ」
古老は丁寧に答えてくれるも、けっしてその処方内容を詳しく語ることはない。もちろん、知りたいという好奇心がないといえば嘘になる。しかし、それ以上に、尋ねてはいけない、知ってはいけないという緊張感を僕は古老から感じとっていた。そして、その姿勢を理解できるのは、自分が同じくメンガ(秘訣)と呼ばれるチベット医学を学んだからかもしれない。
「この処方を受け継ぐ人はいないのですか」という不躾な僕の問いに古老は眼に涙を浮かべた。
「伝えるべき息子が事故で亡くなったんだよ。本当にせつない」
おそらく古老は処方をこれからも語ることはないだろう。いや、いたずらに現代社会の好奇心の目に処方がさらされる必要はないような気がしてきた。誰にも伝えなくてもいい。祖先から受け継ぎ、胸にしまっておかなくてはならないものがある。その凛とした姿勢こそ、現代に伝えなくてはいけない「薬の物語り」だと思っている。
「ほら、これを持っていきなさい」と古老から白菜とリンゴをお土産にもらい帰途についた。青空が生える山あいの小さな村で、僕の心は「ぎりぎり間に合った」という充実感のいっぽうで、古老たちに残された時間を考えると「急がねば」という切迫感に僕の心は満たされていた。
参考資料 鈴木昶著『日本の伝承薬』(薬事日報社、2005年)
わたしたちの祖先や家族の思い出まで詰まったような薬は数少なくなったと思う。だが、悲しいことに、薬の文化財ともいうべき伝承薬の多くは姿を消してしまったし、辛うじて生き残ったものも風前の灯である。それもGMPという薬務行政の失政が引き金であった。
参考資料 『昔語りや伝説と方言』(上田市誌 民族編4、p.35-36)
長野県の上田市にはかつて多くの家伝薬があり、あかぎれに効く栗林の「文治郎膏薬」、富士山下組の「賢太郎膏薬」や、傷の万能薬として細川家に伝わる「赤万膏」などがあった
注:四六通知
昭和46年6月1日に施行されたことから、通称、四六通知と呼ばれる。古来より日本人にとって身近な薬草であったキハダ(第174話)やゲンノショウコ(第52話)やセンブリ、葛根などを「専ら医薬品」として薬に分類し、一般市民が自由に売買することを禁止した。たとえば、山で採ったセンブリはそれまで朝市などで自由に売られていたが、この日を境に禁止された。
注:GMP(Good Manufacturing Practice)基準
1 人による間違いを最小限にする。
2 医薬品が汚染されたり、品質が低下するのを防ぐ
3 高い品質を保つ仕組みをつくる
以上の3点の目標に基づき制定された。GMP基準を満たした製薬工場において加工、検査を行わなければ薬の販売はできない。
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