第154回●トゥ ~逃げ足の速いアムチ~

診察中の僕とデキ先生 2008年10月

ケリー(仮名)がやってきた。メンツィカン診察室の窓の下にタクシーが止まり、大柄な彼女が降りてくるのを見つけると研修医の僕は体を身構えた。いまデキ先生は不在で僕1人しかいない。
ケリーはオーストラリア人女性。たぶん70歳くらいだと思う。ダラムサラに長期滞在し仏教を学びつつ心と体の静養をしている……のだろう。詳しいことはよく覚えていない。ケリーは僕の指導医のデキ先生を信頼していて、1ヶ月ごとに心の悩みの相談に訪れる。先生はときにはあえて彼女を怒らせることもあり、ケリーが声を荒げても先生はまったく動じる様子はないが、そばにいる研修医の僕はかなりビビっていたものだった。

どんな患者にも笑顔で対応するデキ先生は僕がもっとも尊敬するアムチの1人ではあるが、3人の子どもたちの世話のために頻繁に席を外してしまうのは困りものだ。もちろん、そのおかげでときに1人で患者を診察することができているのだけれど。しかし、ケリーだけは話しが別だ。なぜなら彼女はとても早口なので、英語が苦手な僕には会話の半分も聴きとることができない。興奮するとなおさらである。僕の持ち味である話術が使えなければ陸に上がった魚と同じようなもの。

病院長ダチュ先生(奥)

「ハロー。デキ先生はどこ?」。相変わらずの早口だが、これくらいは僕でも大丈夫。「いま、席を外しています。しばらくしたら戻るでしょう」と告げると、彼女は「じゃあ、貴方に診てもらうわ」とどっかりと腰を下ろすではないか。「え、……まじで」と心の底で狼狽する僕。この時点ですでにアムチ失格であろう。脈を診ながらも心ここにあらず。そんな僕を見抜いてか、なにやら早口で詰問してくるが、焦れば焦るほど英語が聞き取れない。イライラしたケリーの英語はますます早口になってくる。や、やばい……。「ウエィト、ウエィト。ワンミニッツ(ちょっと待っていてください)」とかろうじて制すると、とりあえず気を落ち着けるために彼女を残して診察室を出た。すると、診察室からは彼女の大きな嗚咽が聴こえてくるではないか。あわてて隣の診察室から病院長のダチュ先生が駆けつけて彼女の手を握った。しばらくして彼女は落ち着きを取り戻したが、あとで病院長から厳しく指導されたのはいうまでもない。「オガワ、どんなことがあっても、心の悩みで訪れた患者さんを1人ぼっちにしちゃダメでしょ。逃げ(チベット語でトゥ)ちゃだめ」。この一件以来「オガワは逃げ足の速いアムチ」というまったく有難くないレッテルが貼られてしまった。


1ヶ月後、ふたたびケリーがやってきた。そして、またしてもデキ先生は席を外している。僕は覚悟を決めた。しかも、たまたまこのとき日本から心理カウンセラーSさんが僕を訪れ、特例として診察室で同席してもらっていたのだから格好いいところをみせなくてはいけない。いわばデキ先生のように僕はいま指導医の立場にあるのだ。そう精神を奮い立たせてみたが、身体とは正直なものでケリーが診察室に入ってきた瞬間に委縮してしまった。以前と同じようにおそるおそる脈を診る。「ハウ・ドゥ・ユ・ドゥ(最近、どうですか)」。たわいもない会話で相手の機嫌をさぐる。
そのとき、僕はとっさに背後にいるSさんに声をかけた。「もしよかったら一緒に脈を診ませんか」。1人より2人の方が落ち着くというもの。すると、同じ女性ということもあったのかもしれない。いや、ただ単に僕が役不足だったのかもしれない。ケリーの態度が急に柔らかくなったのだ。それを敏感に察したSさんは前のめりに彼女の話に耳を傾けた。けっして彼女の英語力は高いわけではなく僕と変わらないだろう。しかし、彼女の真っ直ぐに向き合う姿勢に、さすがはプロの心理カウンセラーだと感心させられると同時に、「たった1人の日本人アムチ」の面目は完全に失われたのであった。気がつくとSさんはダチュ先生とおなじようにケリーの手をやさしく包みこんでいた。

小諸高原での薬草ワークショップ
2013年6月

言い訳をさせてもらうならば「役不足」と判断したなら逃げることも必要だと思う。ただこの一件をとおして、僕には部屋でのカウンセリング形式は向いていないなと、いい意味でのあきらめを知ることができた。餅は餅屋。対面形式のカウンセリングはSさんのようなプロに任せておけばいい。だからこそ日本に帰国後、僕は山を歩きながら、もしくは薬草茶を作りながら語り合うという、自分の長所を活かす形式にこだわったような気がする(第102話)。
ケリー、今度は一緒にダラムサラの山を歩きませんか。英語は少し上達したような気がします。あ、そうですねSさんも誘いましょう。

(注)
現在はアムチ、もしくはチベット医学生以外の診察室での同席を例外なく禁じています。

(参考)
Sさんは現在、インド国内の日本人学校で「こころの相談員」として活躍されています。

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