(写真提供:中原一博)
「チベット人を励ますために、日本人でコンサートをやろうよ!」。2008年4月、チベット動乱で揺れるダラムサラで(第33話)、日本人のAさんが声を上げた。
30代女性のAさんはチベット仏教を学ぶためにダラムサラに長期滞在し、チベット語を勉強していた。はじめて出会ったとき、尼僧のように頭を丸めていたので、ちょっと面喰ったのを覚えている。Aさんは企画を立ちあげると、すぐさまチベット人の主要団体と話をつけ、正式にコンサートの日時を決定した。そして、在住の日本人や旅行者に次々と声をかけて参加をつのったのである。とはいえ、正直に告白すると、話が大きくなるにつれて僕は不安で仕方が無かった。なぜなら、コンサートといっても、みんなほとんど素人なのである。しかし、そんな僕の心配をよそに、どんどん参加者は増え続け、歌の練習は次第に盛り上がりを見せていった。「上を向いて歩こう」をチベット語と日本語と英語の三か国語で順に歌うことになった。結集したメンバーは歌唱隊が30人に楽器隊が8人。そしてカメラ係の僕で合計39名(注)。思えば、ダラムサラに住んで9年、こんなにも多くの日本人が団結したことは過去に1度としてなかった。
コンサート当日の4月13日、ツクラカン(メインテンプル)の広場には予想をはるかに超える大勢のチベット人が押し寄せた。天気は快晴。まず、Aさんがステージの中央に進み出た。そして彼女はまっすぐ前を向き、大きな声で一語一語、ゆっくりとチベット語でスピーチをはじめた。「ンガン・ツォ・ニホン・ネ・イン(わたしたちは日本人です)。……」。直前までスピーチを何度も練習していたことを知っている僕は、人前でチベット語を話す難しさを知っているからこそ(第15話)、いっそうの緊張感で彼女を見守っていた。もちろん、英語で話すという手もあっただろう。通訳を頼む手段もあったろう。でも、チベット語で直接、語りかけたい。ただ、そんな純粋な動機だったと思う。大観衆にまっすぐに向き合い、彼女のできる限りのチベット語力を駆使し、全身全霊を尽くして話す姿の美しさ。無防備なまでにその姿をさらしている。魂のほとばしり。「ロッ・パ・チェ・ギ・ユ(お・う・え・ん・し・て・い・ま・す)」。そのメッセージは言葉のシンプルさゆえに、強くチベット人たちの心に響いたようだ。ついつい、僕を含め、チベット語を仕事で話す外国人は、上手に、綺麗に話そうと力みがちになる。しかし、お世辞にも流暢とはいえない彼女のチベット語は、確実に彼らの心に響いている。いまだかつて、そして、これからも、あのときのAさんほどに美しいチベット語を聴くことはないかもしれない。
(写真提供:中原一博)
挨拶に続いていよいよ演奏がはじまった。Aさんに影響されたのだろう。日本人38人の心がみんな、まっすぐに開いている。真正面に向き合っている。会場のチベット人たちも、日本人に呼応するかのようにまっすぐに向き合っている。お互いに響きあっている。楽しさのボルテージがどんどんあがっていく。
そういえば問答や読経の姿に象徴されるように(第148話)、チベット人は他者に対して、または仏に対して無防備なまでに正面に向き合う。そこに自分のなわばりは存在しない。たとえば、ダライ・ラマ法王の説法を思い出してみてほしい。法王は原稿なんて参照されない。いつも、聴衆とまっすぐに向き合って話される。自分を守るための壁は存在しない。真っ直ぐ、チベット語では「カルトゥク」という。カルトゥクに向き合う人間にチベット人はきっと敏感に反応し評価してくれるのではないだろうか。後日、ダラムサラでは「日本人の歌は素晴らしかったねえ」と、コンサートへの賛辞がやむことはなかった。
Aさんとは、2011年12月のブッダガヤで偶然、再会した(第147話)。腫瘍が見つかったので、これから帰国するという。あれから半年後、心配になって、彼女の実家に手紙を送ると1ヶ月後「元気に療養しています。」と返事が届き、それが最後の通信になってしまった。Aさんの訃報を聞いたとき、真っ先に思い出されたのは、真っ直ぐに大観衆と向かいあう姿だった。彼女のチベット語には魂が宿っていた。いや、無防備なまでに観衆の前にさらされた彼女の身体そのものが、チベット人にむけて捧げられた究極の「一語」ではなかったか。
(注)
当時、メンツィカン本部から「医師は政治的な活動に参加しないように」と通達が出されていたことから、僕はステージの上には立たなかった。でも、あまりに楽しそうなみんなの顔を見て、激しく後悔したことを告白しておきたい。
(参考文献)
『思想する「からだ」』 竹内敏晴著(晶文社)
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