平日の午後2時から4時ころにかけて、ダラムサラのメインテンプルの広場では、ツェンニーの僧侶たちが賑やかに問答を繰りひろげ、彼らを外国人観光客が物珍しそうに見物している。ツェンニー(仏教論理)ダツァン(僧院)は、ダライラマ法王の強いご希望により、ニンマ、サキャ、ゲルク、カギュといった宗派にこだわらない超宗派の大学として設立された(注1)。チベット語の基礎学問の段階を経て正式に入学すると、基礎論理学、論理学、般若学、中論、アビダルマ、など顕教の学びに10年間を費やすことになる。
問答はこれら仏教書の知識に基づいて行われる。基本的に問答は立って質問する側と、座って答える側の2人1組で行われ、ときに複数での団体戦も行われる。質問する側は発問と同時に大きく手を振りかざし「パチン」と両手を打ち付け、足を「ドスン」と踏み鳴らす。打ち鳴らした左手は「待て」のポーズで伸ばし、右手は「グッ」と手前に引きつける(注2)。そして、答える側の論理に矛盾を生じさせることができたら、矛盾の象徴的行為として片方の手の甲を片方の手のひらに「ツァ、ツァ」と打ちつけて自分の勝利を誇示する。日本で行われる厳かな問答とはまったく異なり、まるでレクリエーションをしているか、もしくは口喧嘩大会を催しているようにもみえる。実際に大喧嘩と勘違いしたインド人が警察に通報したことがあるというが、それも頷ける。あえて日本文化にたとえるならば、築地の競り市場のような賑やかさだろうか。
そういえば、2000年に南インドのセラ寺を訪ねたときのこと(第131話)。お寺に近づくにつれて、地鳴りのような音が聞こえてきた。なんとそれは1000人以上の僧侶たちによる問答の地鳴りだったのだ。声と、手を打ち鳴らす音と、足を踏みつける音の3つによる荘厳なシンフォニー。「チベット仏教って、すんげえー」と、仏教教義の本質はさておき、まずは波動による物理的な力に圧倒されたのを覚えている。そして、南インド旅行から戻った後、メンツィカンではなく、むしろツェンニーに入学しようかと迷ったのは本当の話である。
果たせるかな、問答への憧れはメンツィカン入学後に叶うことになる。1年時の仏教の授業で問答の初歩を学ぶからだ。以下は同級たちが僕を相手にしたときの、超初歩的な問答例である。(注3)
問答例1 小川 VS タシ(僧侶)
タシ 「人間の定義を述べよ」
小川 「マ・シェー・ドン・コ(話したことを理解できる)である(注4)」
質問 「では、犬も人間の言葉に反応できるが、犬は人間か」
小川 「……、知るかそんなもん!」
→ 終了。 タシの瞬殺勝利
問答例2 小川 VS プルキ(女学生)
プルキ「花瓶の定義を述べよ」
小川 「口が細く腹が太っている、である」
プルキ「では、この花瓶は存在しているか」
小川 「している」
プルキ「なぜか」
小川 「見えているから」
プルキ 花瓶を本で隠しながら「では、見えなければ花瓶は存在していないのか」
小川 「そんなことはない。見えなくたって存在している」
プルキ「さっき、見えているから存在しているといったではないか」
小川 「……」
→ 終了。 1R1分。 プルキのKO勝ち。
ダワ VS ドゥクロゲル
外から見るのと実際にやってみるのとでは全然、違うもの。当時、合理的思考の抜けなかった僕には、問答の楽しさが理解できなかった。手と足の動作だけは妙に堂に入っているのだが……。それに比べ同級生たちは、ジグメ、タシといった僧侶はもちろん、みんな問答に慣れていて、まるで卓球やテニスのラリーを楽しんでいるかのようだ。さすがはチベット社会のエリートたちである(注5)。
チベットの学問は、街の人々のなかで育まれ受け継がれている。声に出しあい、知識の音が衝突する賑やかな空間に学問が生まれていく。僕たちチベット医学生も四部医典を暗誦したうえで討論を重ねる。顔と顔を向き合わせ、口角泡を飛ばしながら暗誦引用合戦を繰り返すことで知識の確認をし、同時に他者の力量を推し量るのである。この「知識の音の響き」があるからこそ、チベット仏教と医学は時を越えていまに受け継がれ、そして、未来へと紡いでいくのではないだろうか。
日本にも地鳴りのような学問が生まれないだろうか。響き合う場が生まれないだろうか。いま、早稲田大学で教育学を学びながらそんなことを考えている。
(注1)
19世紀に東チベットのカム地方を中心として、宗派間の争いを捨て、これまでの伝統が継承してきたエッセンスを再統合していく運動が生まれた。この運動は「リ(宗派、分類)メ(無い)」と呼ばれ、20世紀を経て現在までその精神が受け継がれている。ちなみにダラムサラの仏教論理大学には7名の外国人枠が設けられている。現在は主に、韓国、台湾、アメリカ、ドイツなどからの学生が多く、残念ながら日本人は在籍していない。外国人の場合に限り、僧侶でなくても在家のままでの在籍が可能。
(注2)
これらの所作にはすべて意味がある。地獄界など悪趣界を踏みつけ、苦しむ衆生を右手で引き上げて救う。左手は悪趣を押しとどめる。両手を打ち付けることで互いの意識を喚起し明晰にする。
(注3)
問答について詳しく知りたい方は『チベットのための50章(明石書房)』の第18章を参照。本文中の問答例は極めて、極めて初歩的な例であり、僕の実力を如実に示している。メンツィカンでは問答を1、2年時に初歩を学ぶだけで本格的には行わない。
(注4)
人とはなにか、壺とはなにか、1つ1つの事物・事象の定義が決められている。
(注5)
問答は専門用語と特殊規則で行われるため、一般のチベット人にはほとんど理解できない。ちょうど築地の競り市場の専門用語が日本人には理解できないように。
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コメント一覧
aaa2021.05.31 01:16 pm
小川康2021.06.03 07:22 am